朝鮮、李朝(りちょう)第26代の王(在位1863~1907)。傍系王族であった興宣大院君(こうせんだいいんくん)の第2子。1863年、12歳で朝鮮国王に即位したが、最初の10年間は父親大院君が摂政として鎖国攘夷(じょうい)政策に専権をふるい、親政に移行した1873年からも20年以上にわたり王妃閔妃(びんひ/ミンビ)一族が実権を握る閔氏政権の時代が続いた。その在位期間は、内政の混乱と厳しい外圧に直面して朝鮮王朝が滅亡の道を歩む時代であった。1895年、日本公使の指揮のもとで閔妃が殺害される事件(乙未(いつみ)事変)が起きると、反日の姿勢を明確にして、翌1896年にはロシア公使館に逃避し(露館播遷(ろかんはせん))、さらに1897年には国号を大韓帝国と改め初代皇帝となって独立自主の道を固めようとした。日露戦争後の1905年の第二次日韓協約(乙巳(いっし)保護条約)によって日本が韓国を保護国化すると、最後までこれを認めなかった高宗は、「ハーグ密使事件」を契機に強制的に退位させられた。死去後、その国葬の日に合わせて三・一独立運動が計画された。
[馬渕貞利]
『武田幸男編『朝鮮史』(『新版世界各国史2』・2000・山川出版社)』▽『趙景達著『近代朝鮮と日本』(岩波新書)』▽『趙景達著『植民地朝鮮と日本』(岩波新書)』
中国、唐朝第3代の皇帝(在位649~683)。姓名は李治(りち)。太宗の第9子。4歳で晋(しん)王に封ぜられる。16歳の年、長兄承乾(しょうけん)太子が謀反の理由で廃されると、外戚(がいせき) 長孫無忌(ちょうそんむき)の後援と仁孝の評判によって兄たちを差し置いて皇太子にたてられた。太宗の死によって22歳で即位。永徽律令(えいきりつりょう)格式(651)、律疏(りつそ)(653)の選定や『五経正義』の頒行(はんこう)(653)などにより、国制の整備を推進し、ついに666年には泰山で封禅(ほうぜん)を挙行した。他方、父太宗の失敗した高句麗(こうくり)に対する侵攻も668年平定に成功し、西域(せいいき)にも進出して唐の武威は四囲に広がった。しかし、655年王后を廃し武氏(則天武后)を后(きさき)にたててからは、漸次武后が権を握るようになり、やがて長孫無忌が殺され、皇族も次々と実権を奪われた。33歳のとき発病してからは、政務いっさいは武后の処断にゆだねられ、統治の実質は武后時代と認められる。乾陵(けんりょう)に葬られ、のちに武后もここに合葬された。
[池田 温]
中国、南宋(なんそう)初代の皇帝(在位1127~62)。諱(いみな)は構、字(あざな)は徳基(とくき)。北宋第8代徽宗(きそう)の第9子で、兵馬大元帥として江南(こうなん)で金(きん)軍の南侵を防いでいたが、1127年に都の開封(かいほう)が陥落し、徽宗、欽宗(きんそう)らが捕らえられたため、南京応天府(宋州)で帝位についた。即位後も金軍との対立が続き、一時は韓世忠(かんせいちゅう)、張浚(ちょうしゅん)、岳飛(がくひ)らが華北の奪還を図るなど、主戦派が優勢となった。しかし38年に行在(あんざい)(天子の仮宮)を臨安(杭州(こうしゅう))に移してのちは、もっぱら宰相秦檜(しんかい)の和平論に従い、41年、金との間に屈辱的な和議を結んだ。在位中、官制改革や経界法などの租税政策がいちおうの成果をあげ、江南の開発も進んで南宋政権は安定した。
[島居一康]
朝鮮,李朝第26代の王。在位1863-1907年。名は載晃(初名は命福)。諱(いみな)は(き)。大院君の第2子。12歳で即位すると同時に大院君が摂政となり,1873年より親政を始めたが,王妃である閔妃(びんひ)の一族が台頭して政権を掌握した。76年の開港以来,日本,清国などの圧力が強まり,これへの対応をめぐって閔氏,大院君,開化派のあいだに抗争が起きて,壬午軍乱や甲申政変などの諸事件が相次いだ。日清戦争後の95年,日本により閔妃を殺され,一時ロシア公使館に避難したが,97年には王宮に戻って国号を大韓帝国と改め,皇帝と号した。しかし日露戦後,朝鮮は実質的に日本の植民地となり,1907年,ハーグの平和会議に使者を送ってその不当性を訴えようとしたが,日本によって退位を強制された(ハーグ密使事件)。日韓併合ののちは徳寿宮李太王と称され,日本の皇族の待遇をうけた。死去に際して日本人による毒殺の風説がひろまり,葬儀の日をきっかけにして三・一独立運動が勃発した。
執筆者:吉野 誠
中国,南宋初代皇帝。在位1127-62年。北宋第8代皇帝徽宗(きそう)の第9子。姓名は趙構。康王に封ぜられ,1126年(靖康1),兵馬大元帥として金軍の南下を防ぐために河北に行き,徽宗・欽宗が捕らえられて宗室が断絶した(靖康の変)ので南京応天府(河南省)で即位。その後,金軍に攻められて転々とし,1129年(建炎3),臨安府(浙江省杭州)を行在と定めた。主和論者の秦檜(しんかい)を重用,韓世忠・張俊・岳飛ら軍閥諸将をおさえて,金との間に屈辱的な和を結び,臣と称し,銀絹の歳貢を贈ったが,とにかく20年の平和を結び,その間江南の開発は進み,文化は北宋の盛時をしのぐほどになった。彼はすぐれた文化人で,ことに書画には非常に高い鑑賞眼と非凡な技術を兼ね備えていた。散逸した古美術品の回収につとめた結果,徽宗時代の収蔵を上まわるほどになったという。書技・画技においても徽宗にまさっていたと評せられる。書は,黄庭堅・米芾(べいふつ),ついで王羲之・王献之をはじめ晋・唐の書にせまったという。
執筆者:外山 軍治
中国,唐の第3代皇帝。在位649-683年。諱(いみな)は治。太宗の第9子で,母は長孫無忌の妹の文徳皇后。多くの兄たちをさしおいて皇太子となり,ついに皇帝の位につきえたのは,ひとえに長孫無忌の意向による。即位直後は,長孫無忌,褚遂良(ちよすいりよう)らの補佐のもと,太宗の貞観の治をうけついで,内政外交ともに問題はなかった。しかし,高句麗討伐を再開した655年(永徽6),王皇后を廃して,もともと太宗の後宮にいた武氏を皇后に冊立して以後,宮廷や官界の人物地図は急激に塗りかえられ,武后の取りまきが宮中を固めた。660年(顕慶5)以後,高宗は風眩と呼ばれる持病が悪化し,武后に政務を決裁させたため,武后の権力が高宗をしのいでしまい,674年(上元1)には,高宗を天皇,武后を天后といい,人々は二聖と称した。つまり,35年にわたる高宗の在位期間のうち,660年以後の24年間は,事実上の則天武后執政時期だったのである。諡(おくりな)は天皇大帝,乾陵に葬られた。
→則天武后
執筆者:礪波 護
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…名は弘暦。廟号は高宗。雍正帝の第4子。…
※「高宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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