ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クレメンス3世」の意味・わかりやすい解説
クレメンス3世
クレメンスさんせい
Clemens III
[没]1191.3.20. ローマ
ローマ出身の第174代教皇(在位 1187~91)。本名 Paolo Scolari。パレストリーナの司教枢機卿(→カーディナル)だった 1187年12月,教皇に選出された。選出の直前に聖地エルサレムがイスラム軍の指導者サラディンの手に落ちたため,西ヨーロッパの君主に呼びかけて第3次十字軍(1189~92)を組織したが,成果はなかった。また,ドイツ王ハインリヒ6世(在位 1169~97)と,シチリア王ロジェール2世(在位 1130~54)の娘コンスタンスが結婚し,イタリア南部がドイツ王国に統合される脅威にさらされたが,レッチェ伯(→レッチェ)タンクレディにシチリア島の領地を授けることで,この統一を避けようとした。1188年にはスコットランド教会をヨーク大司教区から分離し,ローマに従属させた。また,長年続いていた,ローマの自治を求めるコミューンとの論争を解決した。
クレメンス3世
クレメンスさんせい
Clemens III
[没]1100.9.8. チビタカステラーナ
教皇グレゴリウス7世(在位 1073~85)の対立教皇(在位 1080~1100)。本名 Guiberto di Ravenna; Wiberto di Ravenna。貴族出身。1061年に対立教皇ホノリウス2世(在位 1061~64)の選出を支持した。ドイツ王ハインリヒ4世(在位 1054~77)により,1073年にラベンナの大司教に任命されたが,教皇グレゴリウス7世の進める教会改革に反対してイタリアの皇帝支持派の指導者となり,破門された。1080年6月,ハインリヒ4世が招集したブリクセンの教会会議でグレゴリウス7世の廃位が宣言され,クレメンス3世が選出された。ハインリヒ4世がローマを攻め落とした 1084年3月に登位,ハインリヒ4世を神聖ローマ皇帝として戴冠した。グレゴリウス7世の死後,教皇ビクトル3世(在位 1086~87)とウルバヌス2世(在位 1088~99)に対しても対立教皇であり続けた。
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