堀川国広(読み)ほりかわのくにひろ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「堀川国広」の意味・わかりやすい解説

堀川国広
ほりかわのくにひろ
(?―1614)

桃山時代を代表する刀工。姓は田中で、信濃守(しなののかみ)を受領(ずりょう)。もと日向(ひゅうが)国(宮崎県)飫肥(おび)の伊東家の家臣で、1577年(天正5)同家没落後は山伏となって諸国を流浪し、のち刀工となり古屋の地で鍛刀、さらに当時の美濃(みの)伝・相州伝を学び、90年には野州足利(やしゅうあしかが)学校で城主長尾顕長(あきなが)のために鍛刀している。その後、太閤(たいこう)検地に参加したり、一説には文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に加わったともいう。99年(慶長4)以降は京都一条堀川に定住して子弟の育成にあたった。1613年までの紀年作が残る。前期のものは板目肌が立った鍛えに匂口(においぐち)が締まって沈みごころとなった刃文(はもん)であるが、後期は古作相州鍛冶(かじ)に私淑して沸(にえ)の激しい相州伝となっている。弟子には大隅掾正弘(おおすみのじょうまさひろ)、越後守国儔(えちごのかみくにとも)、出羽大掾国路(でわだいじょうくにみち)、和泉守国貞(いずみのかみくにさだ)、河内守国助(かわちのかみくにすけ)、山城守国清(やましろのかみくにきよ)ほか多数いるが、その作品は「堀川物」として知られている。

[小笠原信夫]

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朝日日本歴史人物事典 「堀川国広」の解説

堀川国広

生年:生没年不詳
桃山時代の刀工。もと日向国飫肥(宮崎県日南市)の城主伊東家の家臣で,東諸県郡綾町古屋に生まれた。伊東家が島津義弘と争って敗れ勢力が衰えると主家を離れ,九州各地を遍歴して,天正18(1590)年には下野足利学校で作刀し,慶長4(1599)年ごろに京都一条堀川に定住した。その地で国安,正弘,在吉,国正,国儔,国助,国貞ら多くの門弟を育て,堀川派を興した。天正4年を最古に,慶長18年まで,およそ40年にわたる年紀作があり,慶長19年ごろに没したとみられる。作品は初期には美濃風の尖り刃,互の目を交えた当時の各国各流派に共通する没個性的な刃文であったが,京都定住後は湾れ刃を主体とし,大きな互の目を交えた沸出来の斬新な刃文を多く焼き,新刀の事実上の祖と評されている。また豊臣秀頼の求めに応じて慶長4年,高野山金剛峯寺,同12年,北野天満宮への奉納刀を制作している。<参考文献>佐藤貫一『国広大鑑』

(原田一敏)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「堀川国広」の意味・わかりやすい解説

堀川国広
ほりかわくにひろ

[生]? 日向
[没]慶長19(1614).京都
安土桃山時代末期~江戸時代初期の山城物の刀工。もと日向飫肥 (おび) 伊東家の藩士で田中姓。同家没落後,諸国を流浪して刀工となる。天正末年に上京,慶長4 (1599) 年頃から京都堀川一条に定住し信濃守を受領。鎌倉~南北朝時代の相州および美濃の鍛刀法を研究し,堀川物と呼ばれる新様式を完成。門下に多くの名工を生み新刀の祖とされている。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「堀川国広」の解説

堀川国広 ほりかわ-くにひろ

国広(くにひろ)

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