日本歴史地名大系 「堀江庄」の解説
堀江庄
ほりえのしよう
古代末期から中世に存在した京都祇園社領庄園。地頭は執権北条氏一族、のち祇園社が勤める。現滑川市域の
康治二年五月七日、前記九ヵ村から
〔鎌倉期〕
文治二年(一一八六)六月一六日に行れた京都祇園社六月会の料所として堀江庄と堀江庄三ヵ村(梅沢村・小泉村・滑川村)がみえ、堀江庄は法会料所として一二貫文の庄役を課されている。正治二年(一二〇〇)には後鳥羽上皇の院宣により堀江庄は不輸地とされ、祇園社執行である玄有の門弟が相伝することとなった(以上「祇園社家条々記録」)。しかし元久二年(一二〇五)九月一六日「堀江保」が祇園社に便補され、「在管新河郡黒川郷内、四至東限横大路、南限小井手江流、西限小井手堺、北限賀積堺」と定められた(「太政官符」八坂神社文書)。これは当庄が便補保として祇園社領と公認されたことを示しており、これ以前に越中国から祇園社に六月会料が納入されていたことなどは事実とみられるが、それは料所として固定化されていたものではなく、前記の「祇園社家条々記録」にみえる堀江庄の表記は後からさかのぼって記されたものと考えられる。
堀江庄
ほりえのしよう
- 徳島県:鳴門市
- 堀江庄
現
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報