堀江庄(読み)ほりえのしよう

日本歴史地名大系 「堀江庄」の解説

堀江庄
ほりえのしよう

古代末期から中世に存在した京都祇園社領庄園。地頭は執権北条氏一族、のち祇園社が勤める。現滑川市域の上市かみいち川右岸には堀江の遺称地があり、かつて堀江庄三ヵ村と称された滑川村小泉こいずみ村・梅沢うめざわ村などの遺称地も存在する。庄域については、現富山市、現中新川なかにいかわ郡上市町・舟橋ふなはし村・立山町にも及んでいた可能性がある。康治元年(一一四二)一〇月日の宮道季式寄進状(祇園社記)に「在越中国管新川郡内力万村、堀江村、伊遠乃見村、小泉村、梅沢村、高槻村、本□□(庄村)、西開発村、大力村」とみえ、下司職を季式の子孫に相伝させるという条件で堀江村などが松室法橋(勧修寺流藤原氏の一族で奈良興福寺僧侶の寛誉か)に寄進された。これらの村々の四至は「東限横路、南限里可流并小井手堺、西限水橋并海、北限 ママ 山」と記され、東は現滑川市横道よこみち付近を含む当時の交通路、南の「里可流」(黒河の誤記とみられる)は上市川支流のごう川、「小井手」は現富山市の旧小出こいで付近に比定される。西は現富山市の水橋みずはし地区および富山湾、北の「山」は現滑川市沿岸部の高塚たかつか付近と推測されている(富山県史)

康治二年五月七日、前記九ヵ村から伊遠乃見いおのみ高槻たかつき大力だいりき三ヵ村を除く六ヵ村の四至を定めることが命じられ(「越中国司庁宣」八坂神社文書)、これによって国免庄の堀江庄が成立したとみられる。久安二年(一一四六)には堀江庄は前司の庁宣を受けた新国司藤原顕成によって不輸庄とされ、官物雑事を免除されている(同三年正月一五日「越中国留守所下文」祇園社記)。同四年一〇月一六日、摂関家の家司である越中守顕成に当庄が譲与された(「松室法眼譲状」同書)。しかし当時の堀江庄は国免庄という不安定なもので、この後いったん収公されたと思われる。

〔鎌倉期〕

文治二年(一一八六)六月一六日に行れた京都祇園社六月会の料所として堀江庄と堀江庄三ヵ村(梅沢村・小泉村・滑川村)がみえ、堀江庄は法会料所として一二貫文の庄役を課されている。正治二年(一二〇〇)には後鳥羽上皇の院宣により堀江庄は不輸地とされ、祇園社執行である玄有の門弟が相伝することとなった(以上「祇園社家条々記録」)。しかし元久二年(一二〇五)九月一六日「堀江保」が祇園社に便補され、「在管新河郡黒川郷内、四至東限横大路、南限小井手江流、西限小井手堺、北限賀積堺」と定められた(「太政官符」八坂神社文書)。これは当庄が便補保として祇園社領と公認されたことを示しており、これ以前に越中国から祇園社に六月会料が納入されていたことなどは事実とみられるが、それは料所として固定化されていたものではなく、前記の「祇園社家条々記録」にみえる堀江庄の表記は後からさかのぼって記されたものと考えられる。


堀江庄
ほりえのしよう

大麻町おおあさちよう地区東部一帯に比定される山城石清水いわしみず八幡宮領の庄園。旧吉野川左岸の沖積平野ならびに大谷おおたに川による扇状地に立地したとみられる。治承二年(一一七八)六月一二日の後白河院庁下文案(石清水文書)は「阿波国 堀江庄」を含む五ヵ庄の領有にかかわる石清水八幡宮別当慶清の訴えの正当性を認めている。この下文案に「件堀江庄者(保延)四年七月理範先師少別当琳清始所申立也」とあり、当庄は保延四年(一一三八)に大法師理範の師少別当琳清によって立券され、代々の別当に相伝された。また「石清水八幡宮縁事抄」所載の弘安元年(一二七八)四月二九日の亀山上皇院宣写に「当宮小塔長日勤行之供料者、阿波国堀江庄所役云々、而近年一向無其沙汰歟」とあり、当時石清水八幡宮小塔供料所となっていたこと、さらにその所務が滞っていたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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