堀江村(読み)ほりえむら

日本歴史地名大系 「堀江村」の解説

堀江村
ほりえむら

[現在地名]浦安市堀江一―六丁目・富士見ふじみ一―五丁目、東京都江戸川南葛西みなみかさい一―七丁目

旧江戸川左岸河口付近の三角洲にあり、近世には江戸湾に面していた。集落は村の北辺を流れる江戸川の分流さかい川に沿って形成され、同川を挟んで北は猫実ねこざね村。江戸川の対岸に新田(堀江新田、現江戸川区)を開発していたが、同所は明治二八年(一八九五)東京府南葛飾みなみかつしか郡葛西村に編入された。江戸時代を通じて幕府領であった。文禄三年(一五九四)七月一〇日の法華経寺四院主連署回状(中山法華経寺文書)に「堀江 正福寺」とある。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二二三石余。江戸初期までは地先の塩浜製塩が行われていたが、浜の荒廃によって寛永六年(一六二九)以降は塩浜役永が免除されている(「塩浜由来書」国立史料館蔵)


堀江村
ほりえむら

[現在地名]松山市堀江町

松山平野の北西端に位置し、いつき灘に面する農村。東は福角ふくずみ村、南は和気浜わけはま村、北は風早かざはや磯河内いそこうち(現北条市)に接する。松山―今治いまばり(現国道一九六号)に沿い、村内西部に港湾をもつ。この地を熟田津にきたつに比定する説がある(→熟田津。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)和気郡の項に「堀江村 日損所、林山有」とある。

古代には、和気郡大内おおうち(和名抄)に属したと考えられる。中世には河野氏の家臣福角氏の支配下にあり、福角ふくずみ港とよばれ、河野氏が国外に赴く場合に常に利用されたので(予章記、予陽河野家譜)、中予地域における要衝として繁栄した。


堀江村
ほりえむら

[現在地名]浜松市舘山寺町かんざんじちよう

浜名湖東岸から延びる庄内しようない半島の北西部に位置。北東は呉松くれまつ村、南は内山うちやま村。文明八年(一四七六)一〇月に横川景三が記した駿州太守肥遯斎賢重大居士の寿像賛に「遠州堀江」とあり(補庵京華前集)、肥遯斎賢重は堀江に居住していたとみられる。文明八年一〇月で寿像としている点に疑問はあるが、内容からすれば肥遯斎賢重は今川義忠(文明八年二月没)のことと考えられる。永正二年(一五〇五)二月五日、今川氏親が奥平貞昌に守護使不入所として宛行った遠江国河西所々のなかに「堀江郷内佐馬間村」がある(「今川氏親判物写」松平奥平家古文書写)


堀江村
ほりえむら

[現在地名]多度津町堀江一―四丁目

新町しんまち村の東、金倉かなくら川河口左岸に位置し、北は瀬戸内海に面する。古くより津として開け、中世には一帯に堀江庄(津)が成立する。同庄の領主名は不明であるが、正安三年(一三〇一)七月二一日の沙弥孝忍奉書および同年七月日の沙弥孝忍・源守連署奉書(いずれも細川家文書)によると、永仁五年(一二九七)春日兼家が地頭職を拝領し、公文職の平氏女の違乱があって氏女を解任、正安三年に再び氏女が公文職に補任されている。同職は貞治三年(一三六四)八月五日に道挺から竹夜叉丸に譲られるが(「道挺譲状」同文書)、非法が続き、翌四年一二月一三日の将軍足利義詮の御教書(同文書)で竹夜叉丸への打渡しが令されている。


堀江村
ほりえむら

[現在地名]江戸川区南葛西みなみかさい一―七丁目、千葉県浦安うらやす市堀江一―六丁目・富士見ふじみ一―五丁目

江戸川河口の三角洲に位置し、下総国葛飾郡に属する。西は武蔵国葛飾郡東宇喜田ひがしうきた村、北は下総国葛飾郡猫実ねこざね(現浦安市)。江戸川左岸に本村があり、右岸の東宇喜田村の南に飛地(現南葛西一―七丁目)が広がっていた。文禄三年(一五九四)七月二〇日の法華経寺四院主連署回状(中山法華経寺古文書)に「堀江 正福寺」とみえる。


堀江村
ほりえむら

[現在地名]滑川市堀江

上市かみいち川東岸に位置し、対岸は石仏いしぼとけ(現上市町)、北は上梅沢かみうめざわ村。康治元年(一一四二)一〇月日の宮道季式寄進状(祇園社記)によると、新川にいかわ郡内の「堀江村」などが松室法橋に寄進されており、当地は同村および京都祇園社領堀江庄の遺称地と考えられる。正保郷帳では高六〇七石余、田方三九町一反余・畑方一町四反余、新田高三五石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高七四二石、免四ツ一歩、明暦二年(一六五六)の新田高三石、小物成は山役一三八匁、鮭役一四匁(退転)、鱒役一匁・鮎役一匁(三箇国高物成帳)。所属組は寺家じけい村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は弥五右衛門、家数七四(百姓五六・頭振一八)、浄土真宗東方の立尅りゆうこく寺・円照えんしよう寺がある。


堀江村
ほりえむら

[現在地名]三日月町大字堀江字堀江

祇園ぎおん川とひら川が合流する、その北方一帯である。正保絵図に村名がみえる。小城郡三ヶ月郷の内にあり、嘉永六年(一八五三)写の大小配分石高帳では、地米(年貢)二六五石一斗六升八合とある。水田および屋敷地が川底より低い所もあり、祇園川・平川両河川の堤防が決壊すると洪水に見舞われた。「肥前国長崎県小城郡村誌」(明治一五年刊)には「嘉永三年ノ洪水、以後小城領堤防高メル、洪水スクナシ」とある。


堀江村
ほりえむら

[現在地名]出雲市平野町ひらのちよう

高浜たかはま川左岸にあり、東は粟津あわづ村、西は常松つねまつ村。慶長年間(一五九六―一六一五)粟津村から分村したという。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高五四四石余、寛文四年(一六六四)の本田高五三九石余、新田高なし。「雲陽大数録」では高四五〇石。宝暦四年(一七五四)の神門郡北方万指出帳(比布智神社文書)では東西一一町・南北六町、田二〇町五反・畑五町一反、家数二七・人数一三四、牛五・馬三、大工一と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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