増島城(読み)ますしまじょう

日本の城がわかる事典 「増島城」の解説

ますしまじょう【増島城】

岐阜県飛騨市にあった平城(ひらじろ)。同県指定史跡。古川盆地のほぼ中央部、神通川の流域にあった城である。1582年(天正10)の本能寺の変後、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が越前(福井県)の柴田勝家、越中(富山県)の佐々成政と対立した際、飛騨の戦国大名の三木自綱(これつな)(別名・姉小路頼綱)は勝家・成政と同盟して秀吉に対抗した。このため、秀吉麾下の金森長近が自綱を攻めて飛騨を制圧し、飛騨3万3000石の大名となった。長近は初め鍋山城(高山市)に入城したが、新たに高山城(高山市)を築き居城とした。1586年(天正14)に長近が築城し、萩原諏訪城(下呂市)とともに本城の高山城の支城としたのが増島城である。完成後、長近は古川城(飛騨市)を居城としていた養子・金森可重を入城させ、城主とした。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに東軍(徳川方)として参戦した長近は、家康から領地を安堵され、加増を受けて飛騨高山藩の初代藩主となったが、1608年(慶長12)に死去した。可重が第2代藩主として高山城に入ると、可重の嫡男・金森重近が増島城主となった。重近は1614年(慶長19)の大坂の陣で徳川方に与した父可重を批判したことで廃嫡となり、可重の死後、可重三男の金森重頼が第3代藩主となった。このころ、増島城主の重近は出家して増島城を去り、京都に住んだ。その後、増島城には金森氏家臣が城代として入城したと考えられているが、1619年(元和1)の一国一城令にともない廃城となった。廃城後、増島城は萩原諏訪城と同様、「古川旅館」と改称して金森氏の別邸として存続したが、1692年(元禄5)に金森氏は出羽国上山藩に国替えとなり、その後、1695年(元禄8)に高山城とともに破却された。現在、増島城の本丸跡は古川小学校の敷地と増島神社の境内になっており、天守台石垣と堀の一部が良好な保存状態で残っている。また、飛騨古川市街にある円光寺、および金森氏菩提寺の林昌寺には増島城の城門を移築した山門が現存する。JR高山本線飛弾古川駅から徒歩約7分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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