江戸中期の儒学者。折衷(せっちゅう)学派。名は立元、字(あざな)は純卿(じゅんけい)、通称は文平。金峨はその号で、考槃翁(こうはんおう)、柳塘閑人(りゅうとうかんじん)とも号した。仁斎(じんさい)学派の宮川熊峯(みやがわようほう)、林家門で古注にも通じた井上蘭台(いのうえらんだい)(1705―1761)に学んだ。やがて当時流行の徂徠(そらい)学を批判して折衷学を唱え、儒学界に新風をおこした。その学説は、学問の道は自得にあるとして、既成の学派にとらわれず、中国漢唐(かんとう)の注疏(ちゅうそ)(古注)と宋明(そうみん)の倫理学説とを取捨折衷して、一家の見(けん)をたてるものであった。家職は、常陸(ひたち)国(茨城県)笠間(かさま)藩医であったが、仕官を辞して民間にあって、亀田鵬斎(かめだほうさい)、山本北山らの多くの優れた門人を育てた。『経義緒言』『経義折衷』『匡正録(きょうせいろく)』『易学弁疑』『師弁』『読学則』『焦余稿』などの著作がある。
[衣笠安喜 2016年4月18日]
江戸中期の儒者。折衷学派。名は立元,字は純卿,通称は文平,金峨は号。江戸の生れで,父は常陸笠間藩医。はじめ川口熊峰に仁斎学,ついで井上蘭台に徂徠学を学んだが,やがて一家言を立てて折衷学の提唱者の一人となった。その説は,一学派一学説にとらわれずに諸説を取捨選択して自得するというもので,経学の訓詁は漢・唐,義理は宋・明の諸学説を折衷し,詩文は唐・宋の諸家に倣い清新平明を主とした。金峨の説は,当時流行した荻生徂徠の古文辞学末流の弊を改め復古主義から解放しようとするものであり,やがて多くの共鳴者を得て江戸の学風を一変させた。一生民間にあって,亀田鵬斎,吉田篁墩,山本北山らの優れた学者をその門から出した。著書に《大学古義》《易学折衷》《経義緒言》《経義折衷》《読学則》《師弁》《匡正録》《霞城講義》などのほか,文集《焦余稿》,随筆《病間長語》などがある。
執筆者:衣笠 安喜
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(高橋昌彦)
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…古学派全盛のあとを受けて,18世紀の後半,当時高名の儒者10人のうち8,9人は折衷学といわれるほど流行し,儒学界の主潮流を占めた。その代表的な学説は,折衷学の提唱者である井上金峨(きんが)の《経義折衷》(1764),片山兼山の《山子垂統》(1775)などにうかがえる。共通点は,朱子学や陽明学などの既成の学説のいずれにも拘束されず,漢・唐の注疏学から宋・明の理学まで先行諸学説を取捨選択して〈穏当〉をはかるという学問方法にあった。…
※「井上金峨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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