多郷(読み)たねごう

日本歴史地名大系 「多郷」の解説


たねごう

現在の飯石郡三刀屋みとや町南部から掛合かけや町にかけて所在した国衙領。種とも記す「出雲国風土記」の飯石郡多禰郷が「和名抄」では多禰郷と田井たい郷に分れるが、後者の多禰郷が再編成されて成立した中世の所領。建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造営所注進状(北島家文書)に多禰上郷・多禰郷とみえる。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の一二番には「多禰郷廿五丁一反小多禰」とあり、隣接する「日蔵別宮三丁」とともに多禰氏が地頭であった。多禰氏については、正安二年(一三〇〇)閏七月五日の関東御教書案(千家家文書)に、多禰頼茂が出雲国守護佐々木貞清・在国司朝山時綱とともに杵築大社(出雲大社)造営奉行としてみえ、朝山氏と並ぶ出雲国衙の有力在庁官人であった。暦応元年(一三三八)一二月四日の高師泰施行状(三刀屋文書)により、多禰清頼と飯石郷(現三刀屋町)地頭目黒太郎左衛門尉に対して大雲だいうん(現広瀬町)雑掌による三刀屋郷惣領地頭職への押妨を停止し、下地を諏訪部扶重に沙汰付けるように命じられており、多禰清頼が幕府方であったことがわかる。多禰清頼は翌年一月二〇日に諏訪部扶重に沙汰付けたことを報告しているが(「兵庫助清頼請文」同文書)、康永年間(一三四二―四五)以降の多禰氏の動向はほとんど不明である。康永二年と推定される五月一三日の沙弥浄覚書状(千家家文書)では、杵築大社の所職・所領の相論について多禰氏・朝山氏に伝えたことが記されているが、これが多禰氏に関する最後の史料となる。そしてこれと同時期と推定される三月三日の左衛門尉義政同親清連署注進状(同文書)によれば、多禰郷内坂本さかもと(現三刀屋町)が杵築大社領としてみえ、康永三年六月五日の千家孝宗北島貞孝和与状(同文書)にも、両者で折半する所領として坂本村がみえる。

康永四年二月二七日には南朝方の佐々木次郎左衛門尉貞家が多禰郷内屋根山やねやま(現三刀屋町)に立籠ったが、三刀屋氏・塩冶氏ら幕府方の攻撃を受けて落城に追込まれている(同年三月日「諏訪部貞扶軍忠状」三刀屋文書)



たねごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、「出雲国風土記」に多禰郷のほか、種とあるのでタネであろう。風土記によれば飯石郡七郷の一つで、郡家の所在する郷で、地名は大穴持命が須久奈比古命と巡行した際稲種を当地に落したことに由来し、初め種と称していたが、神亀三年(七二六)多禰に改めたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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