プロ野球選手(外野手:左投左打)、監督。12月15日、神戸市で生まれ、1936年(昭和11)台湾の高雄(たかお)に移る。高雄商野球部ではエースで4番をこなした。1942年に明治大学へ進学するが、戦争のためこの年限りで六大学野球は休止となり、そのため1試合も出場しないまま、翌1943年には兵役に就いた。1945年に復学したが、中退してセネタース(現、北海道日本ハムファイターズ)へ入団、1年目の1946年から本塁打王を獲得した。20本塁打というのは当時の新記録で、中島治康(はるやす)と鶴岡一人(かずと)が残した10本という従来の記録を倍増させるものであった。球団名が東急フライヤーズとなった翌1947年は打率と本塁打の二冠王を獲得した。その打球はアーチと表現するにふさわしく、川上哲治(てつはる)の弾丸ライナーとは対照的に、高く弧を描いて遠くに飛んだ。人々はホームランに魅了され、川上とは当時のプロ野球界の人気を二分、「赤バットの川上、青バットの大下」といわれた。1952年西鉄ライオンズ(現、埼玉西武ライオンズ)に移り、1959年退団した。1968年に1年だけ東映フライヤーズ(現、北海道日本ハムファイターズ)の監督を務めた。
[出村義和 2016年9月16日]
選手としての14年間の通算成績は、出場試合1547、安打1667、打率3割3厘、本塁打201、打点861。獲得したおもなタイトルは、首位打者3回、本塁打王3回、最高殊勲選手(現、最優秀選手)1回、ベストナイン8回。監督としての通算成績(1年)は、80試合、30勝46敗4分け、勝率3割9分5厘。1980年(昭和55)に野球殿堂(野球殿堂博物館)入り。
[編集部 2016年9月16日]
『大下弘著『大下弘日記――球道徒然草』(1980・ベースボール・マガジン社)』▽『桑原稲敏著『青バットのポンちゃん大下弘――伝説に彩られた天才打者の実像』(1989・ライブ出版)』▽『辺見じゅん著『大下弘――虹の生涯』(1992・新潮社)』
昭和期のプロ野球選手
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…45年1月1日から5日間,計8500人の観衆を集めて甲子園球場で行われた在阪4球団の試合を最後にプロ野球は中止となったが,敗戦直後の45年11月23日には神宮球場で東西対抗が行われ,再建の第一歩を印した。この試合でデビューした青バットの大下弘は,赤バットの川上哲治とならんでホームランのヒーローとなった。戦時中の日本野球報国会が日本野球連盟として再発足し,翌46年にはペナントレースが復活した。…
※「大下弘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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