大久保新田(読み)おおくぼしんでん

日本歴史地名大系 「大久保新田」の解説

大久保新田
おおくぼしんでん

[現在地名]習志野市大久保一―四丁目・本大久保もとおおくぼ一―五丁目・泉町いずみちよう一―三丁目・新栄しんえい一―二丁目・藤崎ふじさき六丁目・屋敷やしき三丁目

藤崎村の東に位置する。北部は下野しもの牧に接し、集落は東西に通る東金御成とうがねおなり街道沿いに営まれる。新田の成立時期は未詳で、村名は窪地に由来するとも鷺沼さぎぬま村などを知行所とした旗本大久保氏にかかわるともいうが明らかではない。地内薬師寺縁起によれば、新田を開いたのは市角頼母で、大坂夏の陣で敗れたあと帰農土着したらしく、同寺はその持仏堂であった。

大久保新田
おおくぼしんでん

[現在地名]新宿区西早稲田にしわせだ三丁目など

下戸塚しもとつか高田たかだ馬場の北にあり、西と北は源兵衛げんべえ村。戸塚村の枝郷で、日蓮宗亮朝りようちよう院近辺の東西二〇間・南北三〇間ほど(現西早稲田三丁目)を村域とする。この村域の東端を北上する道は雑司ヶ谷ぞうしがや・板橋宿方面へ通じている。ただし、このほかに親村である戸塚村内にも村地(現高田馬場三―四丁目、百人町四丁目)が散在する。元禄四年(一六九一)の当新田と戸塚村両村の名寄(中村家文書)には共通の小名が多い。

大久保新田
おおくぼしんでん

[現在地名]豊栄市大久保

阿賀野川右岸の自然堤防上に位置する。西は太子堂たいしどう村、南は大迎おおむかえ新田・長戸呂ながとろ村。村内を新江しんえ用水が流れる。承応元年(一六五二)太子堂村の半之丞が七人の百姓とともに荒蕪地の開発を出願、明暦三年(一六五七)許可を得て、「長戸呂村之内大久保縄内より三ツ屋村浦谷内迄田方三町歩、畑方一〇町歩」を開いたという(倉島家文書)。万治二年(一六五九)村名が大久保新田に決定され、半之丞は新田開発に功労があったとして肝煎となり、屋敷畑二反歩を与えられた(豊栄年表資料)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報