長戸呂村(読み)ながとろむら

日本歴史地名大系 「長戸呂村」の解説

長戸呂村
ながとろむら

[現在地名]中仙町長戸呂

たま川南岸の沖積平地にあり、南は花館はなだて村(現大曲おおまがり市)、東は四ッ屋よつや(現大曲市)に接する。

享保八年(一七二三)の仙北郡郡村本村支村御高調帳(秋田県庁蔵)に「先年小杉山村之内ニ御座候所ニ、山川遍たて迷惑仕候故御訴詔申上、貞享元年子年高分被成下別黒印罷成候」とあり、貞享元年(一六八四)玉川対岸小杉山こすぎやま村(現西仙北にしせんぼく町)から分村したことを伝える。


長戸呂村
ながとろむら

[現在地名]豊栄市長戸呂

南は灰塚はいづか新田、西は大迎おおむかえ新田、北は大久保おおくぼ新田・長戸呂新田長安ちようあん寺に残る伝承によれば、天正年間(一五七三―九二)の開発という。慶長三年(一五九八)頃の新発田藩の御領内高付帳(新発田市史資料)に「飯野村長とろ村共ニ」として四四石一斗九升が記される。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)では一石八斗五升の炉役を一一軒で負担している。正保国絵図に高一二〇石余、新発田藩領とある。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に家数三七・人数二七一とある。


長戸呂村
ながとろむら

[現在地名]三郷市鷹野たかの

大場おおば川を挟んで横堀よこぼり村の東に位置する。田園簿に記載がなく、もとは高須たかす村の内に含まれたという(風土記稿)。貞享三年(一六八六)に関東郡代伊奈忠篤が取調べた利根川通関所之外脇渡場改覚(竹橋余筆)には長戸呂村とみえる。元禄郷帳では横堀村一本木いつぽんぎ村を含んでいたと思われ、高一九三石余。その後両村とも分村し、天保郷帳では当村の高五三石余。検地は元禄八年(一六九五)の武蔵国幕府領総検地の一環として実施され、延享元年(一七四四)には流作場検地、文政元年(一八一八)には古大場ふるおおば川跡の新田検地が行われたという(「風土記稿」など)江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(「風土記稿」・改革組合取調書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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