大乗寺跡(読み)だいじようじあと

日本歴史地名大系 「大乗寺跡」の解説

大乗寺跡
だいじようじあと

[現在地名]博多区上川端

大正九年(一九二〇)に現中央区大手門おおてもん一丁目の長宮ちようきゆう院境内に合併・移転するまで大乗寺前町にあった寺。法皇山宝珠ほうしゆ院と号し、もとは奈良西大寺末の律宗寺院。亀山法皇の勅願寺と伝えられる。永禄八年(一五六五)頃に浄土宗、寛永二一年(一六四四)福岡藩二代藩主黒田忠之が真言宗(京都仁和寺末)に改め、東照権現の絵像を安置して毎月一七日に参詣した。大猷院(徳川家光)の牌も安置され、このとき末寺(浄土宗)栄昌えいしよう庵・順弘庵が片土居かたどい町に移されたという。


大乗寺跡
だいじようじあと

[現在地名]日吉町日置

八幡神社の東に位置する。吉富山と号し、曹洞宗本尊阿弥陀如来。島津貴久室の建立開山龍雲りよううん(現東市来町)一岳。初め伊集いじゆう院の臨済宗広済こうさい寺の末寺であったが、文禄四年(一五九五)島津常久が日置領主となったとき祖父歳久の冥福を祈るため龍雲寺の末寺とし、日置島津家の菩提寺に定めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報