日置村(読み)へきむら

日本歴史地名大系 「日置村」の解説

日置村
へきむら

[現在地名]日置町大字日置上へきかみ・大字日置中へきなか・大字日置下へきしも

油谷ゆや湾に流入する掛淵かけぶち川上流の流域平野を中心とした村で、東は深川ふかわ(現長門市)、南は俵山たわらやま(現長門市)、西は久富ひさとみ村・蔵小田くらおだ(現油谷町)に接し、北から北西部は深川湾に面する。先大津宰判に所属する。

「和名抄」(刊本)に記される日置ひおき郷の郷域で、中世には三条家の荘園日置庄の地であったと思われる。文治二年(一一八六)日置八幡宮文書にも「日置庄」の名がみえ、村内の小字兼行けんぎようは、同文書享禄四年(一五三一)六月七日付のものに「兼行保」とある。また村内に一円いちえんという地名があり、佐々木道誉の兄弟に一円という人物がおり、佐々木氏の一族が長門国の守護を務めたことがあることから、その関係ある地名とする説もある(注進案)

慶長一五年(一六一〇)検地帳でも「日置庄」とあり、総石高四千四〇〇石余、うち田が三五一町余で三千八〇三石余、畠が五四町余で一八五石余。百姓屋敷三三〇、市屋敷一九、浦屋敷五八で、浦浮役一九一石余、小物成六石余を負担する大村として記される。

日置村
へきむら

[現在地名]新富町日置ひおき

現新富町の北部に位置し、南東は日向灘、西は新田井倉にゆうたいくら村、南西は三納代みなしろ村、南は富田とんだ村、北は高鍋たかなべ(現高鍋町)、東は日向灘に面する。中世は倍木へきと記され、国富くどみ庄に含まれた。海岸に沿って南北に豊後街道が通る。高鍋藩領で、新納にいろ七郷のうち日置郷は当村一村で構成された。当村(郷)は初め野別府代官支配地であったが、元禄四年(一六九一)以降新納代官支配地となった(拾遺本藩実録)。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領知目録写(高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえ、同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高六〇八石余。田方は定免で、一反につき三ツ二分七厘四毛であった(「新納代官目安」本藩秘典)。また当村からは御節会物として小鯛一〇枚が藩に上納された(「御台所目安」同書)

日置村
ひおきむら

[現在地名]日吉町日置

現日吉町の中央部に位置する。中世は日置北ひおきほく郷・日置庄に含まれ、近世は日置郷の中心村。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に日置北郷内日置村とみえ、高三千二八七石余。「三州御治世要覧」では延享(一七四四―四八)頃の高二千九五九石余。日置郷は吉利よしとし郷との間で吉利川や諸正もろまさ嶽などの山地が郷境となっているため、享保一二年(一七二七)吉利から組頭・横目・高奉行・郡見廻・竹目見廻・行司と門の代表者二四名が「大境見分ニ罷出」、翌年村境論争が決着した(「縄引帳」吉利文書など)西溜にしたまり溝は明暦(一六五五―五八)頃開削されたと推定され、元文二年(一七三七)には一千二七〇余名の人夫・加勢人を動員して紙漉かみすきの荒野を開田した(日吉町郷土誌)

日置村
ひおきむら

[現在地名]一志町日置

雲出くもず川中流右岸にあり、東はしよう村、西は高野たかの村に接する。「和名抄」の日置郷の中心地にあたり、西方の田尻たじり村から当村へ続く田尻条里遺構の東端は庄村との境界庄村溝の旧雲出川河道で破壊されている。当村は戸木へき(現久居市)とともに、古代伊勢に勢力を有した日置氏との関係が想定される。中世は万寿まんじゆ(現京都市)領日置庄が成立した(京城万寿禅寺記)。また鎌倉時代以降日置村を中心に日置氏が勢力を扶植したと伝え、建仁三年(一二〇三)、日置治行が村内に築城したという(「日置履歴」中谷家蔵)。日置氏は代々北畠氏に仕えた譜代の家臣となり、戦国時代の大膳亮に至る。

日置村
ひおきむら

[現在地名]中区松原まつばら大須おおすたちばな、中川区西日置にしひおき町・西日置・柳堀やなぎぼり町・広住ひろすみ町・運河うんが通・松重まつしげ町、中村区日置通・若狭わかさ町・名駅南めいえきみなみ五丁目

東は前津小林まえづこばやし村、西はほり川を越し露橋つゆはし(現中川区)、北は広井ひろい(現西区・中村区)、南は古渡ふるわたり村に接する広い村。村名は日置神社に由来するという。「寛文覚書」によれば高一千七五七石余、田畑八六町六反余のうち田が五八町三反余。宝永六年(一七〇九)頃の尾府名古屋図(蓬左文庫蔵)によると、当地はわずかの寺院と武家屋敷があるのみで、ほとんど畑であった。その後徐々に町並が延び、享保一三年(一七二八)以降、当村は徴税事務を除いて町奉行の支配となった(吏事随筆)

日置村
ひおきむら

[現在地名]宮津市字日置

天橋立の北方、世屋せや谷入口にあたる。古代・中世を通じて日置郷の中心地であった。

慶長検地郷村帳に高一一二九・三八石「日置郷」とみえるが、寛文九年(一六六九)永井尚征が丹後に入部してから、日置上ひおきあげ村・日置浜ひおきはま村に分離された。延宝三年郷村帳に日置上村は高六六〇・九三八石、日置浜村は四六八・四四二石とみえるが、同九年(一六八一)の延高でそれぞれ一千一二三石余、八〇八石余となり(天和元年宮津領村高帳)、その延べ率は約七割に達した。前年の同八年六月、宮津藩主永井尚長がしば増上ぞうじよう(現東京都港区)で将軍家綱の法要中横死したのち、八月領地召上げ、翌九年五月阿部正邦入国までの間一時蔵入(幕府領)となって、この時日置上・日置浜村境に生野代官所の出張陣屋が置かれた。

日置村
ひおきむら

[現在地名]日高町日置

江原えばら村の北と東に広がる広域の村で、集落は円山まるやま川の両岸沿いに発達。村域南端西方に進美寺しんめいじ(約三六一メートル)があり、進美寺参道の一つがある。古代の気多けた郡日置郷(和名抄)、中世の日置郷の遺称地。江戸時代の領主の変遷は天保七年(一八三六)までは宵田よいだ村に同じ。同年幕府領となり(「御用部屋日記」など)、幕末に至る。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高二六二石余。

日置村
ひおきむら

[現在地名]八木町字日置

東から南にかけては氷所ひどころ村、西は大堰おおい川支流官山かんざん川を境に諸木もろぎ村・野条のじよう村が連なり、北は上世木かみせき(現日吉町)である。南北に細長く、北部は山地。

室町時代の様子を描くとされる丹波国吉富庄絵図(真継梶之助家蔵)には「上津日置村」と記される。幼時を丹波に過ごした相国しようこく(現京都市上京区)の僧瑞渓周鳳は西田にしだのコンピラ山に登って「臥雲日件録」文安四年(一四四七)八月一三日条に「於是北望、則山下曰青砥、々々之北十余町、東西諸山連綿、在西則日置山也、東則氷所山也、又東則山階山也」と記す。

日置村
ひおきむら

[現在地名]立山町日置

常願寺川中流右岸に沿い、南は半屋なかりや村、北は利田上野りたうわの村。南方の西大森にしおおもり村との距離は二四町五間(三州測量図籍)。古代に日置部に属する部民が当地に来住したことが地名の由来と伝える。「延喜式」神名帳に載る新川郡日置神社は当地に所在する同名社とする説がある。正保郷帳では高一六四石余、田方九町六反余・畑方一町二反余、新田高三五石余。

日置村
へきむら

[現在地名]八代市日置ひおき

八代城下北東、萩原はぎわら村の北に立地する。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳では田方三八二石六斗余・畠方四三一石五斗余。高田手永に属し、「国誌」に「里俗下日置村ト云」とある。慶安二年(一六四九)の八代知行分高并人畜ノ書付(松井家文書)に下日置村の現高八一四石一斗余、門数二八・家数八五、人数一三五、牛馬二八、蜜柑三本とある。

日置村
へきむら

[現在地名]佐屋町日置

東と北を津島つしま(現津島市)に接する大村。「和名抄」の海部郡に「日置」とみえ、「吾妻鏡」の文治三年(一一八七)一〇月二六日に「尾張国日置預被奉寄左女牛宮」とある。「徇行記」によれば、概高一千五〇四石余のうち九七四石余は藩士五人の給知。田は七二町六反二畝余、畑は二四町八反余。「寛文覚書」に戸数一一四、人数五三七とある。

日置村
へきむら

[現在地名]夜久野町字日置

西に高内たかうち村、東に額田ぬかた村がある。まき川北岸の但馬街道に沿い、南面した山麓に細長く延びる集落。高五六四石(丹波志)

弥生時代の日置遺跡からは有樋式磨製石剣・太型蛤刃磨製石斧・石包丁などが出土し、須恵器登窯跡も残る。

日置村
ひきむら

[現在地名]高浜町日置

三松みつまつ村の南に位置し、南は山を経て宝尾たからお(現大飯町川上)へ通じる。村内を関屋せきや川の支流日置川が北流する。「若狭郡県志」に「日置村属青郷、去小浜六里余也、村中有上日置、下日置之号」とあり、文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写に「日置宮三反 青郷」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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