大井谷村(読み)おおいやつむら

日本歴史地名大系 「大井谷村」の解説

大井谷村
おおいやつむら

[現在地名]大原町大原

小浜こばま村の南に位置し、東は太平洋に臨む。中魚落なかいおち郷を構成する一村で、元禄郷帳などには村名はみえない。享和元年(一八〇一)の家数三〇六、枝郷に矢指戸やさしどがある(伊能忠敬測量日記)。寛延三年(一七五〇)大井谷浦諸運上金目録帳(荘司家文書)によれば、地網大八手七張二一両・地網小八手四張八両・地小舟小八手七張七両、ほかに大賃船二艘・小賃船一艘、諸魚一〇分の一、御干場三町七反余と新開場・見取場、海老網五三反、鰍船三艘の運上として計八七両余を納めている。


大井谷村
おおいだにむら

[現在地名]柿木村白谷しらたに

白須山しらすやま村の北西吉賀よしが川の支流大井谷川のほとりにある山間の村。津和野城主吉見弘信の正長年間(一四二八―二九)に、当村とやなぎ(現日原町)で紙を産出したと伝えられる(日原町史)。明治四年(一八七一)の万手鑑では古高八〇石余、寛永一四年(一六三七)の検地高一一四石余、明治四年の総高一五五石余・反別二六町七反余、家数三〇(本百姓二四・小百姓五・一向宗西蔵寺)・人数一一六、牛一八、米蔵一、滝本山剣玉りゆうほんざんけんぎよく神社、紙漉舟一七、鉄砲二。


大井谷村
おおいだにむら

[現在地名]金城町長田ながた

大佐おおさ山の北麓、長田川左岸に位置。北は東谷ひがしだに村・波佐はざ村、西は波佐村。近世領主変遷乙明おとあけ村と同じ。明治四年(一八七一)の万手鑑では東谷村のうち大井谷とみえ、古高一二〇石余、寛永一四年(一六三七)の検地高一九五石余。明治四年の総高二一五石余・反別二七町六反余。家数三七・人数一七四。米蔵一。紙漉船一七、鉄砲一、牛二三・馬七。


大井谷村
おおいだにむら

[現在地名]熊野市五郷いさと町大井谷

柳谷やなぎだに村の北、北山川支流大井谷川の中ほどに開けた村。「紀伊続風土記」に「村名は大堰の義なり」と記される。慶長六年(一六〇一)検地帳(徳川林政史蔵)に「大井谷村」と記される。江戸時代初期北山組に属する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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