大俣村(読み)おおまたむら

日本歴史地名大系 「大俣村」の解説

大俣村
おおまたむら

[現在地名]市場町大俣

上喜来かみぎらい村の南西に位置する。「阿波国風土記」逸文に記す「勝間井」は勝命かつみよう(現阿波町)が遺称地であるとする説があるが、その北の大俣のスケノカタの泉が勝間かつま井であるという(粟の落穂)。また大俣のかみ池は承和一三年(八四六)阿波介に任じられた山田宿禰古嗣が造成した池の一つと伝え、大又池と称した(阿波志)。地内に行峯ゆきみね貞久さだひさ久光ひさみつ清原せいばらなど中世の名をうかがわせる地名がある。慶長二年(一五九七)の分限帳に「大俣村」とあり、高九四石余が河村喜八郎、高六三石余が長江源右衛門、高五〇石余が穂積弥市右衛門、高四六石余(ただし柿原村ともに)が益田八右衛門、高五石余が堀尾平右衛門、高四石余が田川新左衛門の知行分。同七年の大股村検地帳(正徳五年写、坂東家文書)では田二二町一反余・分米一〇七石余、畠四町六反余・分米八石余で、名請人に刀禰中将・重清らがみえる。正保国絵図では高二七二石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方一六七石余・畠方一〇五石余。

大俣村
おおまたむら

[現在地名]中野市大字大俣

長丘ながおか丘陵の西麓にあって、西は千曲川の本流、南は千曲川の古川跡、東部は丘陵によって囲まれた沖積氾濫原にのぞんでいる。

七瀬ななせ田麦たむぎ方面から丘陵を越えた所に位置し、千曲川の渡場でもあったので村名の大俣は「大またぎ」の意であろうか。近世には俗に皆畑みなはた村ともいわれた。

諏訪御符礼之古書をみると、当地には北大熊きたおおくま村を知行していた高梨一族の大俣高親が、同じ安田高茂とともに水内みのち和田わだ郷の寄子となって寛正八年(一四六七)四月八日の諏訪社上社の花会の頭役を勤めている。和田郷は初め香坂氏の知行であったが、文明六年(一四七四)以後は全く惣領家高梨政高の知行になったことが知られる。

大俣村
おおまたむら

[現在地名]舞鶴市字大俣

砥石といし岳の南麓に位置し、由良川支流ひのき川の谷に沿った散村。比較的通行容易な鞍部によって栃葉とちばを経て上宮津に至る。

中世は岡田おかだ庄に属し、地名は丹後国田数帳の岡田庄の項に「一□□段 大俣分」とみえるのが早い。

慶長検地郷村帳に高一九六・二四石「大股村」とあり、次いで「大股村之内栃場村」の付記がある。土目録によれば高は変化せず、内訳は田方一四八石余、畑方四七石余、運上のなかに渋柿一石、端折紙二束があった。延享三年(一七四六)の郡中高究付覚によれば農家戸数五九。

当村と宮津藩領上宮津三ヵ村(小田・今福・喜多、現宮津市)との間に入会山の境界について承応三年(一六五四)以来たびたび争いがあり、最後は貞享四年(一六八七)双方が出訴した。

大俣村
おおまたむら

[現在地名]飯高町もり

久谷くたに村の南西、はちす川の左岸にある。明治二年(一八六九)大指出帳(徳川林政史蔵)によれば家数三三、人数二〇六。「銀拾弐匁 木地挽役銀」の記載は山間部の村として木地屋伝統を伝えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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