日本歴史地名大系 「大俣村」の解説
大俣村
おおまたむら
大俣村
おおまたむら
中世は
慶長検地郷村帳に高一九六・二四石「大股村」とあり、次いで「大股村之内栃場村」の付記がある。土目録によれば高は変化せず、内訳は田方一四八石余、畑方四七石余、運上のなかに渋柿一石、端折紙二束があった。延享三年(一七四六)の郡中高究付覚によれば農家戸数五九。
当村と宮津藩領上宮津三ヵ村(小田・今福・喜多、現宮津市)との間に入会山の境界について承応三年(一六五四)以来たびたび争いがあり、最後は貞享四年(一六八七)双方が出訴した。
大俣村
おおまたむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報