大崎浦(読み)おおさきうら

日本歴史地名大系 「大崎浦」の解説

大崎浦
おおさきうら

[現在地名]下津町大崎

かた村の北西、下津湾口の北岸の岬に位置する。岬は長峰ながみね山脈の西端にあたり、大崎の名称はこれに由来する。集落は岬の先端部の小湾に臨む。この小湾は下津湾の支湾で、その湾口は山に囲まれて南を向き、北西に開く下津湾よりも風を避けうるため、小型船の時代には優れた係船の地であった。「続風土記」に「因て当村田畑なく又大網をも作らす只入船の宿をなすを業とす」というように古くから港として知られていた。古代すでに四国への船出の港とされており、「万葉集」巻六に載る「石上乙麻呂卿、土佐国に配さるる時の歌」と題する長歌の反歌に

<資料は省略されています>

とある「大崎の神の小浜」は当浦に比定される。

中世には浜中はまなか庄に含まれた地で、文永七年(一二七〇)二月九日付の湯浅宗業田地寄進状(高山寺文書)に「寄進星尾寺 紀伊国浜仲庄北方内大□□□」とあるが、この不明字は大崎・丸田まるだではないかとされる。大崎は東隣の丸田とともに浜中庄北方(浜中北庄)の地とされ、この時「伍段田地」が、この地の地頭と思われる湯浅宗業によって星尾ほしお(現有田市の神光寺)に寄進されたらしい。なお北朝方についた湯浅党と思われる沙弥道智が、貴志朝綱に地頭職を譲った折の貞治元年(一三六二)一一月二五日付の譲状写(御前家文書)に「黒田村大崎地頭職」とある。

慶長検地高目録では村高一七一石余。寛永一九年(一六四二)の大崎浦検地帳によれば田畝六町三反五畝で九二・二〇八石、畑畝は一一町二反四畝二二歩で一一〇・九九七石とあり、田地より畑地が多い。


大崎浦
おおさきうら

[現在地名]加世田市唐仁原

加世田郷の浦の一つ(「薩藩政要録」など)。現在の流路と異なる万之瀬まのせ川の河口近く、同川左岸の唐仁原とうじんばら村のうちにあった。加世田名勝志では浦人の竈数一二一・人躰八〇七。幕末頃の加世田再撰史(加世田市立郷土資料館蔵)では竈数一五〇(衆中二九・浦人一二〇・家来一)・人躰一千一二五(衆中一五八・浦人九六二・家来五)、船数三二。延宝八年(一六八〇)には五匁の魚運上銀、浦人七三六人に対し三六人に一人の浦水手役を出す規定であった(列朝制度)。唐仁原庄屋浦役所の管轄下にあった。大崎浦には鹿児島藩主一族の浜遊び場があった(天保一四年「加世田再撰帳」加世田市立郷土資料館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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