日本歴史地名大系 「大更村」の解説 大更村おおぶけむら 岩手県:岩手郡西根町大更村[現在地名]西根町大更南東流する松(まつ)川と東流する赤(あか)川一帯に広がる田園地帯。西は鹿角(かづの)街道を挟んで平笠(ひらかさ)村・田頭(でんどう)村、南東は松川を挟んで松内(まつない)村(現玉山村)。大更とは大きな湿地帯を意味するアイヌ語という。「雑書」正保四年(一六四七)七月二五日条に「大更谷地」と記される。江戸時代初期は田頭村の枝村で、盛岡藩の奨励による新田開発が進められた。前期は村の西側を東流する寝別(ねべつ)川や両(りよう)沼から水を引揚げて北西部の開発が行われ、沼宮内(ぬまくない)通代官所(現岩手町)およびこの地に知行地をもつ藩士による新田開発が競合するかたちで進行した。後期には盛岡藩主南部家の手許金による御側新田の開発が進められ、正徳年中(一七一一―一六)の洪水によって一時荒廃したが再開され、松川の上流や渋(しぶ)川から小川や溝が縦横に村内に引入れられ、好摩(こうま)村(現玉山村)を含む広大な村南西部の開拓が進められた。前期の開発について、「雑書」延宝二年(一六七四)一一月一六日条に「田頭村大更新田肝煎右馬助、御新田精を入れ、為披由」とみえ、沼宮内通代官所から米三駄が支給されている。身帯(盛岡市中央公民館蔵)の同四年三月一二日条によれば、奥瀬治太夫が新田大更村ほか三ヵ所の新田の検地を申請しており、この前年には田頭村給所百姓が鹿角街道伝馬について訴状を出し、そのなかで大更新田の開発を命ぜられたと苦情が寄せられている。なお「雑書」元禄八年(一六九五)七月五日条には、田頭村で起きた殺傷事件に際し、その処理に当たった者のなかに大更村肝煎久右衛門の名がみえ、新田の肝煎とは別に田頭村の枝村としての肝煎がいたことが知られる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by