大用水(読み)おおぶけようすい

日本歴史地名大系 「大用水」の解説

用水
おおぶけようすい

寛永一四年(一六三七)から正保元年(一六四四)にかけて行われた大新田の開発事業の一環として開削された灌漑用水路。開削当初は横川よこかわ(現東頸城郡浦川原村)保倉ほくら川を堰止めて取水し、保倉川右岸の台地の縁辺に沿い、六日町むいかまち村・日向ひなた村・印内いんない村・飯室いいむろ(現浦川原村)を経て、はなさき村・鵜木うのき新田に至る。鵜木新田北江きたえ中江・南江の三用水に分流するが、本流は南江用水で、保倉川沿いに福崎ふくざき新田・上三分一かみさんぶいち村・下吉しもよし新田などを経て、福島ふくしま村で保倉川へ落水する。これにより大新田が開かれた。保倉川の度重なる出水で、横川堰からの取水は不可能となり、享保八年(一七二三)取水口を上流の顕聖寺けんしようじ(現浦川原村)に移している。

大用水
おおようすい

近世大渡おおわたり村で九頭竜くずりゆう川の水を取入れ、若猪野わかいの村・上高島かみたかじま村・北市きたいち村・下毛屋しもけや村・下高島村畔川あぜがわ村の六ヵ村および勝山町が共同利用した用水。立合たちあい用水ともよぶ。

用水利用の井組が結ばれたのは享保六年(一七二一)。用水はこれ以前から設けられていたが、同年七月一六日、九頭竜川の洪水で、用水が大破し、その修復人足入用や江料をめぐって関係一町六ヵ村が争論、翌七年三月、用水人足割を勝山町三分の二、郷方六ヵ村三分の一とし、その他入費や江料米をも定めた極証文「相定申証文之事」を取交わした(天保一四年「大用水一件荒増控」松屋文書)。しかし争論はその後も起こり、享保九年には郷方三分の一の分け方をめぐって六ヵ村が対立し、一一月、畔川村二〇・四一人、下毛屋村一〇・二人、北市村七・六五人、若猪野村六・一三人、上高島村二五人、下高島村三〇・六六人という割合で、立合用水割符郷方六ケ村取替シ証文(若猪野区有文書)を取交わしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android