大渡村(読み)おおわたりむら

日本歴史地名大系 「大渡村」の解説

大渡村
おおわたりむら

[現在地名]今市市大渡

南東へ流れる鬼怒川南岸にあり、南部を大谷だいや川の小支流が流れる。河内かわち郡に属し、鬼怒川対岸は塩谷郡船生ふにゆう(現塩谷町)、南はとどろく村。日光北街道が南西から北東に向かい、中央部で東へ折れて約三町の宿の家並を通り、東北に曲がって鬼怒川を越える。文政八年(一八二五)以降に記された古来記(秋元正俊文書)によれば、近世は初め結城秀康領、板橋藩領・下総山川藩領を経て阿部重次領となり、寛永二一年(一六四四)日光領となる。この間慶長一七年(一六一二)と寛永七年に検地を受けた。古来記所引の寛永二一年の年貢割付状では高一三九石余。慶安郷帳に「大渡り村」とみえ、畑高三九石余。寛文六年(一六六六)検地帳(大貫貞二文書)では田三反二畝余・畑屋敷二九町七反余、名請人七一人、屋敷は三一筆。

大渡村
おおわたりむら

[現在地名]勝山市平泉寺へいせんじ町大渡

九頭竜くずりゆう右岸に位置し、北は勝山街道によって勝山町に通じ、南は九頭竜川の右岸を上って坂谷さかたに(現大野市)へ、またはこの渡を渡って大野城下へ至る。城山しろやまを中心に周囲を遠望できる要地。明応三年(一四九四)五月の洞雲寺領目録(洞雲寺文書)に「玉岩寄進分」として二石・銭二〇〇文が「為隆承阿闍梨、土打入道寄進、在坪、大渡」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名が記され、高三六四・八五石は廃藩まで変わらなかった。慶長五年から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄地、元禄五年(一六九二)以降美濃国郡上藩領となった。

大渡村
おおわたりむら

[現在地名]前橋市大渡町

北と西は総社そうじや町、南は大友おおども村・内藤分ないとうぶん村に接し、東の利根川対岸の勢多せた岩神いわがみ村とは大渡渡で結ばれる。天正一三年(一五八五)一月一八日の北条氏邦書状写(赤見文書)によれば、矢野兵部右衛門は「厩橋於于大渡之原」て比類なき働きをしている。元和五年(一六一九)の安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)に村名があり、「高内藤分ニ入」として、田方六町七反余・畑方八町六反余と記される。

大渡村
おおわたりむら

[現在地名]北方町大字大渡

六角ろつかく川の南岸にあり、杵島山北部喜佐木きさき(現白石町)と境を接する。

村名は橘薩摩一族所領支配注文(小鹿島文書)にみえ、年代・日付が欠如しているが、建武四年(一三三七)と推定され、

<資料は省略されています>

とあり、室町時代の初めに橘薩摩一族の所領の格付けが行われた時、すでにこの村は存在した。

大渡村
おわたりむら

[現在地名]緒方町夏足なたせ 大渡

打越うちこし村の北、大野川北岸にある。同川は村内で大きく曲流して東へ流れる。正保郷帳に村名がみえ、田高四三石余・畑高四七石余、大方おおがた郷に属し、柴山有、日損所と注記される。旧高旧領取調帳では高一二七石余。安永七年(一七七八)には大形組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。大野川には竹を編んで筏のような形にした浮橋が設けられていた。土産として一尺以上の大きさの魚があり、美味という(豊後国志)。万延年間(一八六〇―六一)には庄屋首藤氏により養蚕業が始められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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