井出村(読み)いでむら

日本歴史地名大系 「井出村」の解説

井出村
いでむら

[現在地名]群馬町井出

現群馬町の西南端にあり、西は井野いの川を境に浜川はまがわ(現高崎市)。古代群馬郡井出郷(和名抄)の地で、「万葉集」巻一四に載る「伊香保ろの八尺の堰塞いでに立つ虹の顕ろまでもさ寝をさ寝てば」の「堰塞」を当地とする説もある。中世井出の集落は、村の北西部字元井出もといでの通称屋敷跡やしきあとにあって、井野川を挟んで浜川の字道場どうじようとともに住人は長野氏に仕えていたという。元和―寛永二年(一六一五―二五)東方の現在地へ全村五三戸が移転した(上郊村誌)。元井出には、箕輪の合戦で戦死した最後の箕輪みのわ(現箕郷町)城主長野業盛の墓があり、怒り仏おこりぼとけとよばれる。

元和五年の安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)に村名がみえる。高六三五石余、田方三四町二反余・畑方二六町二反余、高崎藩領。寛文四年(一六六四)の検地名寄帳(井出区有文書)によると同年の検地は高崎藩が実施。高・反別とも前掲高覚帳と変わらず、家数九〇。最高の持高は名主権三郎の三町四反余。


井出村
いでむら

[現在地名]沼津市井出

愛鷹あしたか山の南麓、高橋たかはし川支流井出大いでおお川の上流右岸に位置する。東は根古屋ねごや村、西は平沼ひらぬま村、南は浮島うきしま沼や浮島ヶ原を開拓した水田を隔ててはら宿。村内を根方ねがた街道が通り、街道に沿って集落がある。幕末頃に東・西の二村に分村したが、明治初年再び合併して一村となっている。村方合併願(深沢家文書)によれば当初は東組と西組の二組に組分けされていたが、追々分割して二村となった。しかし境界をめぐる数十年来の紛擾があるうえに、小村では村費もかさむので合併して旧に復したという。

中世には阿野あの庄域に含まれた。地内の曹洞宗大泉だいせん寺は源頼朝異母弟阿野全成の居館跡とされ、境内に全成と子の時元の墓がある。


井出村
いでむら

[現在地名]楢葉町井出

東流して太平洋に注ぐ井出川に沿い、西の山中にある山所布やまところぶから東の海岸部の本釜もとがままで細長く延びる。南は大谷おおや村・北田きただ村。中心集落は木屋きや西原にしはらで、萩平はぎだいらむかいうちだい・本釜に散在する。地名は宝治二年(一二四八)龍田たつた神社を大和国から勧請した井出玄蕃頭隆吉によると伝える。近世に磐城平藩郡奉行(寺社奉行)を勤めた井出弥三郎正倫は井出氏の支族という(井出家文書)。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では「いての村」とあり、高四一〇石余、小物成として塩竈三具・三貫六六〇文、猟船一艘・三〇〇文、山手銭一貫三〇〇文とある。


井出村
いでむら

[現在地名]左京区大原おおはら井手町

村の南にあたり高野たかの川を隔てて東は戸寺とでら村に隣する。村内を大原川長谷ながたに川が流れ、いずれもこの地で高野たかの川に合流する。大原八郷に属し古く蛇井手じやいてとも称した。中世は大原西庄を形成する一村として延暦寺平等びようどう房の領地となっていた(「華頂要略」文和元年一二月三日)

江戸時代、黒川道祐は「北肉魚山行記」で次のように記している。

<資料は省略されています>

かつて井出村がほかの大原郷の村々同様に禁裏と深い結付きを有し、村民が供御人的性格を有していたことや、山門の勢力下にあったことなどがうかがえる。


井出村
いでむら

[現在地名]南部町井出

北より佐野さの川が南流し富士川へ合流、北西は内船うつぶな村、南東は十島とおしま村、富士川対岸は巨摩郡福士ふくし(現富沢町)。枝郷に米沢よねざわがある。慶長古高帳では高四九石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版の三郡村高帳では自普請役高九二石余・新田高役引八石余。文化(一八〇四―一八)初年の家数六〇・人数二九九、馬一八(甲斐国志)


井出村
いでむら

[現在地名]西区伊川谷町潤和いかわだにちようじゆんな

明石川支流の伊川下流左岸に位置し、西は新方しんぼう村、南方は明石城。慶長国絵図に「出井村」とみえる。正保郷帳に井出村とあり、田方九一石余・畑方一八石余。天保郷帳では高一二五石余。明石藩領東浦部組に所属。「明石記」によると東西二〇町・南北二〇町。池一・井堤一、自分林一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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