大笹村(読み)おおざさむら

日本歴史地名大系 「大笹村」の解説

大笹村
おおざさむら

[現在地名]嬬恋村大笹

大前おおまえ村の西、干俣ほしまた村の南に位置し、村の中心吾妻川右岸は広大な浅間山の北山麓、左岸四阿あずまや山の東山麓にあり、ゆるやかな高原状の地形大部分を占める。鎌原かんばらからは北国街道・中山道の脇往還信州道が通り、東南方中山道沓掛くつかけ宿(現長野県北佐久郡軽井沢町)に向かう沓掛街道が分岐する。文安元年(一四四四)五月七日の聖栄旦那譲状(下屋文書)に「しをのしなの形太郎・形四郎・形二郎」とみえる。「しをのしな」は大前に近い東端のしおしまにあたる。古くは吾妻川と大横おおよこ川に沿う低地の字神明しんめいなかいり集落を構えたが、水害または天正(一五七三―九二)頃の戦火に追われて現在の台地に移ったとされる。長左衛門を襲名する黒岩家の家記にも北甘楽きたかんら黒岩くろいわ(現富岡市)より同志三六人とともに字神明に来て塁を構えたとあり、神明に接する平地屋敷やしき地名が残る。

万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高一四六石余。寛文郷帳では田方三石九斗余・畑方一四二石余。寛文三年(一六六三)の沼田藩領新検地控によると高六六五石余で鎌原縫殿給分。貞享二年(一六八五)沼田藩領再検地控では一七八石余。元禄郷帳では幕府領。江戸後期には幕府領で、家数八五(御改革組合村高帳)。元禄一四年(一七〇一)の信州甲石かぶといし(現長野県小県郡真田町)などとの鳥居とりい峠をめぐる国境紛争では当村が勝訴している(→鳥居峠


大笹村
おおささむら

[現在地名]村岡町大笹

中大谷なかおおたに村の西にあり、集落は大谷川の上流域に発達する。北に瀞川とろかわ山、南西には鉢伏はちぶせ(一二二一・一メートル)がそびえ、両山の間にある野間のま(標高九三五メートル)を越えて、茅野かやの(現美方町)に至る山道が通じていた。大篠とも書いた(天保郷帳など)。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「大さゝ村」とみえる。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では高五八石余。寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも高は同じ。天保郷帳では高九六石余。「兎束庄由来記」によると康永年中(一三四二―四五)に因幡国の浪士永富某が鉢伏山に籠って当村を開発、のちに居を野間に移して野間殿とよばれたという。


大笹村
おおざさむら

[現在地名]志賀町大笹・五里峠ごりとうげ

米町こんまち村の南、五里峠山塊に集落が点在する山村。大篠村とも書き、大笹・うしくびの二垣内からなる。元和二年(一六一六)の高三五九石余、役棟三(「苦竹運上極」雄谷文書)正保郷帳の高三五八石余、田二〇町八反余・畑三町余、免三ツ二厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高三八九石、免四ツ三歩、小物成は山役九〇目・苦竹役一七匁、鳥役四匁(出来)とある(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細の高四〇〇石・新開三五石、家数四八(うち頭振七)・人数一六五、馬一七、稼は小ばい木・布。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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