日本大百科全書(ニッポニカ) 「大聖寺一揆」の意味・わかりやすい解説
大聖寺一揆
だいしょうじいっき
1712年(正徳2)加賀国大聖寺藩領江沼(えぬま)郡那谷寺(なたでら)(石川県小松市)ほか80か村の農民が年貢の減免を求めて起こした百姓一揆。暴風・塩害による凶作によって、村々が減免要求の訴願闘争を起こした。そこで、藩は検見(けみ)役人を派遣したが、減免をまったく認めずに素通りしてしまう立離(たちはなし)村が多かったため、10月6日、期待を裏切られた農民が検見役人に強訴(ごうそ)するとともに、小百姓の一部が紙問屋、茶問屋などの特権商人や十村(とむら)(大庄屋(おおじょうや))などを打毀(うちこわ)し、その結果、藩は年貢を4割に減免し、1万2000石弱の藩貸米を与えた。
この一揆は、病人・身体障害者以外の15歳から65歳までの男は1人残らず、しかも肝煎(きもいり)(名主)などの村役人から頭振(あたまふり)(水呑(みずのみ)百姓)・下人(げにん)に至るまで、十村以外のすべての農民諸階層が参加した惣(そう)百姓一揆の典型である。また、全藩領的規模の農民が参加して強訴し、打毀を併発したことから、激しい打毀を伴う全藩的強訴の画期をなすものと評価されている。この一揆の史料『那谷寺通夜(なたでらつや)物語』は、民間の一揆文学の初期のものとして著名である。
[吉武佳一郎]