徳川家宣(読み)トクガワイエノブ

精選版 日本国語大辞典 「徳川家宣」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐いえのぶ【徳川家宣】

  1. 江戸幕府第六代将軍。甲府藩主綱重の長男。綱吉の養子。幼名虎松。宝永六年(一七〇九)将軍となる。柳沢吉保を退け側用人間部詮房を重用し、新井白石を登用して政治の刷新を行なう。寛文二~正徳二年(一六六二‐一七一二

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百科事典マイペディア 「徳川家宣」の意味・わかりやすい解説

徳川家宣【とくがわいえのぶ】

江戸幕府6代将軍(在位1709年―1712年)。3代家光の三男甲府藩主徳川綱重の子。幼名虎松。初名綱豊。諡号(しごう)文昭院。1676年甲府25万石を継いだが,1704年5代綱吉の養子となり,1709年将軍となる。側用人(そばようにん)間部詮房(まなべあきふさ),侍講新井白石補佐を受け,生類憐みの令など前代弊政を修正。儒教徳治主義を政治の理想とし,3年余の治世ではあったが,後世〈正徳(しょうとく)の治(ち)〉と称された。
→関連項目雨森芳洲折たく柴の記読史余論

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改訂新版 世界大百科事典 「徳川家宣」の意味・わかりやすい解説

徳川家宣 (とくがわいえのぶ)
生没年:1662-1712(寛文2-正徳2)

江戸幕府6代将軍。3代将軍家光の三男甲府藩主綱重の長子。幼名虎松。法号文昭院。綱重が正室を迎える前の子であったので,一時家老新見正信に養われ,新見左近と名のる。1670年(寛文10)甲府藩邸にもどり,76年(延宝4)元服して綱豊と名のり,78年甲府25万石を継ぐ。翌年近衛基熙の娘熙子と結婚。1704年(宝永1)5代将軍綱吉の養子となり,家宣と改名。09年6代将軍となる。側用人間部詮房(まなべあきふさ),侍講新井白石の補佐を受け,生類憐みの令の廃止をはじめ,前代の弊政の修正に努め,あつく儒教を信奉して人民仁愛施政に心がけ,儀礼の整備,勘定所機構の改革,通貨改良など諸政刷新を意図したが,在職3年余りで死去した。その治世は失政もなく,比較的平穏な時期だったので,〈正徳の治〉と称せられる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳川家宣」の意味・わかりやすい解説

徳川家宣
とくがわいえのぶ

[生]寛文2(1662).4.25. 江戸
[没]正徳2(1712).10.14. 江戸
江戸幕府6代将軍 (在職 1709~12) 。父は甲府藩主徳川綱重。母は田中氏。幼名は虎松。初め綱豊といい,宝永1 (04) 年家宣と改名。院号は文昭院。同年 12月5日5代将軍綱吉の養嗣子となった。同6年5月1日将軍宣下。前代の悪政元凶であった大老格柳沢吉保を罷免し,庶民を苦しめた『生類憐みの令』を廃して,政治の刷新をはかった。間部詮房を側用人として新井白石の献策を入れ,財政改革,儀礼の整備などを実行しようとしたが実現をみないうちに死去。家宣の遺志は子の家継に受継がれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳川家宣」の意味・わかりやすい解説

徳川家宣
とくがわいえのぶ
(1662―1712)

江戸幕府第6代将軍。3代将軍家光(いえみつ)の三男甲府藩主綱重(つなしげ)の長子。初名綱豊(つなとよ)。綱重が正室を迎える前の子であったので、一時家老新見正信に養われ、1670年(寛文10)甲府藩邸に戻り、1678年(延宝6)甲府25万石を継ぐ。翌年近衛基煕(このえもとひろ)の娘煕子と結婚。1704年(宝永1)5代将軍綱吉の養子となり、家宣と改名。1709年6代将軍となる。側用人(そばようにん)間部詮房(まなべあきふさ)、侍講新井白石(あらいはくせき)の補佐を受け、生類憐(しょうるいあわれ)みの令の廃止をはじめ前代の悪政の修正に努め、儀礼の整備、勘定所(かんじょうしょ)機構改革、通貨改良など諸政刷新を意図したが、在職4年足らずで正徳(しょうとく)2年10月14日死去。法号文昭院。

[辻 達也]


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳川家宣」の解説

徳川家宣
とくがわいえのぶ

1662.4.25~1712.10.14

江戸幕府6代将軍(在職1709.5.1~12.10.14)。甲斐国甲府藩主の徳川綱重の長男。母は側室長昌院(お保良の方)。幼名虎松。通称左近。諱ははじめ綱豊(つなとよ)。法号文昭院。1678年(延宝6)綱重の死後,甲府徳川家25万石を就封,翌年近衛基熙の女熙子と結婚。1704年(宝永元)叔父の将軍綱吉の養子となり家宣と改称,このとき家臣は幕臣に編入された。09年綱吉が没し,将軍職を継ぐ。前代の遺臣柳沢吉保や荻原重秀を退け,甲府時代からの侍講新井白石や側用人間部詮房(まなべあきふさ)を登用して文治政治を展開,閑院宮家の設立,朝鮮通信使の待遇改善,財政改革などを行い正徳の治と称されるが,治世わずか3年余で没した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳川家宣」の解説

徳川家宣 とくがわ-いえのぶ

1662-1712 江戸幕府6代将軍。在職1709-12。
寛文2年4月25日生まれ。徳川綱重(つなしげ)の長男。母はお保良の方(長昌院)。甲斐(かい)(山梨県)府中藩主から叔父(おじ)徳川綱吉(つなよし)の養子となり,宝永6年将軍職をつぐ。間部詮房(まなべ-あきふさ),新井白石の補佐をうけ,生類憐(あわれ)みの令の廃止,正徳(しょうとく)金銀の発行,朝鮮通信使節の待遇の簡素化などをすすめた(正徳の治)。正徳2年10月14日死去。51歳。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。法号は文昭院。

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旺文社日本史事典 三訂版 「徳川家宣」の解説

徳川家宣
とくがわいえのぶ

1662〜1712
江戸幕府6代将軍(在職1709〜12)
3代将軍家光の孫。甲府藩主徳川綱重の長男。1704年,綱吉の養子となり将軍職を継いだ。生類憐みの令を廃止,間部詮房 (まなべあきふさ) を側用人とし,儒臣新井白石の意見を用い,朝鮮通信使の待遇簡素化など文治政治を行った。この治世を,つぎの7代家継の治世も含めて正徳の治という。

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367日誕生日大事典 「徳川家宣」の解説

徳川家宣 (とくがわいえのぶ)

生年月日:1662年4月25日
江戸時代中期の江戸幕府第6代の将軍
1712年没

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世界大百科事典(旧版)内の徳川家宣の言及

【正徳の治】より

…江戸中期,1709年(宝永6)から15年(正徳5)まで7年にわたる6代将軍徳川家宣,7代家継の治世の通称。家宣は幕府内外からの期待をうけて将軍となり,生類憐みの令の廃止を手始めに前代の弊政の改廃につとめ,側用人間部詮房(まなべあきふさ),侍講新井白石がこれを補佐した。…

【武家諸法度】より

…江戸幕府が武家の守るべき義務を定めた法令。天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…

※「徳川家宣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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