日本大百科全書(ニッポニカ) 「丸亀藩」の意味・わかりやすい解説
丸亀藩
まるがめはん
讃岐(さぬき)国(香川県)那珂(なか)郡に置かれた藩。生駒高俊(いこまたかとし)が出羽(でわ)国(秋田県)矢島へ転封されたのち、高松・丸亀2藩により讃岐は統治される。1641年(寛永18)山崎家治(いえはる)が入封し、57年(明暦3)断絶まで3代16年間5万7000石を領す。山崎氏の後を受け、1658年(万治1)播磨(はりま)国(兵庫県)龍野(たつの)城主京極高和(きょうごくたかかず)が入封し、西讃岐132か村5万0067石と播磨国揖保(いぼ)郡30か村1万石をあわせ6万0067石を領す。以後廃藩置県まで7代(高和、高豊(たかとよ)、高或(たかもち)、高矩(たかのり)、高中(たかなか)、高朗(たかあきら)、朗徹(あきゆき))、212年間続いた。1694年(元禄7)3代高或のとき庶兄高通(たかみち)に多度津(たどつ)1万石を分封する。丸亀の城下は山崎氏のときすでに形成されていたが、高和は城を修築するに伴い城下も再整備し、新田開発を行った。高松藩と同様水不足に悩まされ、多くの溜池(ためいけ)を築造した。とくに豊田(とよた)郡井関村(観音寺(かんおんじ)市)につくられた井関池は大規模なもので、これに伴い新田開発も進められた。和田村、関屋新田、粟屋新田などが開発された。文化(ぶんか)年間(1804~18)港を築造(福島湛甫(たんぽ))したが、これ以後金毘羅(こんぴら)参拝の船が多く集中、天保(てんぽう)年間(1830~44)新港を築造(新堀湛甫)した。これにより丸亀―大坂間に毎日定期の金毘羅船が往来し繁栄する。また金毘羅参りの土産(みやげ)物としてつくり始められた団扇(うちわ)は、天明(てんめい)年間(1781~89)に江戸屋敷の足軽、小者が手内職でつくり、やがては藩の財源とするため丸亀城下でも大量に生産されるようになった。「伊予竹に土佐紙はりて阿波(あお)ぐれば讃岐団扇で四国(至極(しごく))涼し」と歌われたように、丸亀の特産品として現在にまでつくり継がれている。
[橋詰 茂]
『京極家編『西讃府志』(1929・藤田書店)』▽『『新修丸亀市史』(1971・丸亀市)』▽『堀田璋左右著『京極家の歴史』(1957・丸亀市公民館)』