大野島村(読み)おおのじまむら

日本歴史地名大系 「大野島村」の解説

大野島村
おおのじまむら

[現在地名]市場町大野島

山野上やまのうえ村の南東、香美かがみ村の東に位置し、南部を吉野川支流の善入寺ぜんにゆうじ川が東流する。「阿府志」は名勝であり歌名所である阿波野が転訛して大野島になったという。王子前おうじまえの地蔵堂にある康応元年(一三八九)銘の板碑はもと中山なかやま墓地にあったとされる。中世には秋月あきづき庄のうちであったと想定されている(寛永一七年八幡神社棟札銘文)。かつては香美村のうちで、また北東八幡やわた町は当地内であった。慶長二年(一五九七)の分限帳に「大野島」とあり、高七〇石余が河井新介の知行分。寛永七年(一六三〇)の知行割符帳(蜂須賀家文書)では「大野島村」内の高一四石余が福岡新之丞の知行分。正保国絵図では高三七七石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方一五九石余・畠方二一七石余、旱損の注記がある。


大野島村
おおのじまむら

[現在地名]大川市大野島おおのしま

筑後川河口にできた中洲の北半分にあたり、南は肥前国大詫間おおだくま(現佐賀県川副町)。柳川藩領。元禄国絵図に一木ひとつき村のうちとして村名がみえる。天保郷帳では一木村のうち大野島として高一千六三七石余。旧高旧領取調帳では南北に分れ、北大野島の高八一八石余、南大野島の高八三九石余。幕末から明治初年の反別は北大野島が八一町八反余、南大野島が八三町九反余(郡郷)。なお柳川藩領図には「津村之内大野島高」として一千一七一石九斗七升とある。


大野島村
おおのじまむら

[現在地名]岩槻市大野島

長宮ながみや村の西に位置し、元荒川左岸の自然堤防上に集落が形成されている。江戸時代初期から岩槻藩領で幕末に至る。田園簿に村名がみえ、高は田方七〇石余・畑方一四一石余。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)では家数四〇(本百姓二四・水呑一六)、人数二一五、岩槻藩の地方支配は新方にいがた筋に所属。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳によると高二五一石余、ほかに新田高一八石余、小物成は柳原銭藍瓶役鐚一貫七文、見取場田畑三町一反余。宝永期(一七〇四―一一)の岩槻藩五ヵ筋村高帳では高二六九石余、うち三六石余は名主・組頭高引、地方支配は平野筋に所属。


大野島村
おおのじまむら

[現在地名]上志比村大野島

九頭竜くずりゆう川中流域の左岸に位置し、北西市右衛門島いちうえもんじま村、南は清水しみず村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「志比上之庄」に含まれていたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方九九石余・畠方四四石余。正保二年(一六四五)福井藩領から松岡藩領となり、享保六年(一七二一)再び福井藩領となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android