大間村
おおまむら
[現在地名]大間町大間
下北半島の西北端に位置し、津軽海峡に面する。村内を大間川が流れ、東の丘陵地に藩営牧の大間野がある。北には大間崎が突きだし、大間崎の北の海上約五〇〇メートルに弁天島がある。南は海岸沿いに奥戸村、東は折戸山(一一九・一メートル)を境に蛇浦村(現風間浦村)と接する。大間崎の先端部に四十八館跡がある。「南部諸城の研究」では蝦夷館の大なるものとしている。康正年間(一四五五―五七)の蠣崎の乱の後「蛇浦打出し別村となる」(東北太平記)というが、委細は明らかでない。
雑書の寛永二一年(一六四四)四月二六日条に「一同所大間」とあり、浦番改が派遣されている。正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に大間村六石余とみえ、同年の郷村帳によれば六・二五二石のうち六・一六五石と、ほとんどが田であった。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には高五八・九石余、うち畑一六・二石余とあり、戸口は七二軒・三三三人。
大間村
だいまむら
[現在地名]松前町大間
現松前町の北部、村の北を重信川が東西に流れ、東は中河原村、西は上高柳村に接する。条里制の名残と思われる小字中ノ坪・三反地・四反地・五反地・六反地・九反地などがある。大間の地名については、高忍日売神社の神田の政所があったので大政村としたとか、村の開拓者大政氏から出たとか、応永(一三九四―一四二八)の頃怪しい魔物が出て里人を悩ましたので大魔村とよんだとかいう。「予陽河野家譜」に元亀三年(一五七二)八月、中国勢八千余騎が来襲上陸し、一部が中川原・大間に陣したところ大野直昌・土居通利・井門右衛門尉父子らの伊予軍が打ち破り、北河原まで追い払ったとある。
大間村
おおまむら
[現在地名]鴻巣市大間・大間一―三丁目・栄町・逆川一丁目・堤町・幸町
滝馬室村の北にあり、東は鴻巣宿。大宮台地上に位置し、西から中央に谷が入り込む。足立郡忍領に属する(風土記稿)。寛永一二年(一六三五)の忍領在々御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ高一五六石余。田園簿では田四九石・畑一〇七石余、旗本久保領。国立史料館本元禄郷帳では旗本西尾領(「寛政重修諸家譜」では元禄四年知行地を足立郡内に移されたとある)と林大学頭領。
大間村
だいまむら
[現在地名]大牟田市三池
三池町村の西、大間山から西に延びる洪積台地とその開析谷からなる。西は田崎村・草木村、北は田隈村。文禄四年(一五九五)の高橋統増(立花直次)に宛てられた知行方目録(三池立花家文書)に「町・大間」とあり、高六八九石余。元和六年(一六二〇)以降柳川藩領。同七年の郡村帳では玄蕃高八三三石余・新田高二五石余。小物成は山手米一石余・樹木米一斗余・茶年貢米二升。旧高旧領取調帳では高七〇八石余。二代藩主立花忠茂時代には中村市兵衛・宮川弥右衛門・十時市右衛門・光行助右衛門・中村専之丞らが当村に知行地を与えられていた(万治三年「忠茂公御代之分限帳」渡辺家史料)。
大間村
おおまむら
[現在地名]静岡市大間
藁科川の最上流部、湯島村の北に位置し、南西は楢尾村。村名の由来について、「修訂駿河国新風土記」は大間の滝(福養の滝)に宿るとされる古の名馬磨墨にちなみ、大馬あるいは老馬(オヒウマ)と称したとする。いさご宮太夫なる落人が信濃国から来たのが当村の創始という(駿河記)。領主は安西外新田と同じ。元禄郷帳では高二七石余。「駿河記」では家数一四。山間の地で良木を産するが運送が困難なため、檜を用いて方盆や柄杓を作るのを生業とする(前掲新風土記)。
大間村
だいまむら
[現在地名]神埼町大字永歌字大門
城原川のすぐ東方に位置する長崎街道沿いの新宿(現千代田町)の東にあたる。
古くは「大間」と記されていたが、江戸末期より「大門」と記すようになった。正保絵図に村名がみえる。嘉永六年(一八五三)写の大小配分石高帳によれば、鍋島摂津守が三三五石を知行する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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