大須賀町
おおすかちよう
面積:三三・八五平方キロ
小笠郡の西端部に位置し、東は大東町、北から北西は袋井市、西は磐田郡浅羽町に接し、南は遠州灘に臨む。町域北端に小笠山がそびえる。町域を南流する東大谷川・西大谷川はいずれも天井川で普段は水は流れていないが、いったん雨降りが続くと堤防決壊などの災害が繰返されてきた。町域の東端を龍今寺川、西端を弁財天川が流れる。海岸部は天竜川・太田川などの砂土の供給により、広い砂丘の発達をみた。冬になると遠州名物の空っ風が吹き、その風によって砂が飛散るのを防ぐため海岸沿いの村々では人々が交替で出て雑木の枝を砂地に立てた。粗朶立てという。そして砂地は広がって小さな砂山ができ、砂山と砂山との間の畑は村人によって分けられた。砂丘の幅は広いところで数百メートルあり、高さは今沢海岸の大砂丘で三〇メートルにも及び、砂スキーも早くから行われた。しかし現在は砂丘も低くなって松や雑木が茂り、行われていない。
大須賀町
おおすがまち
[現在地名]大津市丸の内町・膳所二丁目
大津町の南にある両側町。町の南端は膳所城中大手門の通り。膳所村域に町割が行われ、元和三年(一六一七)本多康俊が膳所に移封になるに伴い、旧地の三河国西尾城下(現愛知県西尾市)の横須賀から移住した商人が居住したという。元禄一五年(一七〇二)の膳所総絵図(中村家蔵)に町名がみえ、東海道筋の町並は六二間余で、家数三三。膳所藩明細帳では人数八九。幕末膳所城下図には中大手筋付近に藩の御使者宿を勤めた山形屋、その向いには酒・醤油などを扱った麹庄こと川津庄兵衛家がみえる。町の西方には侍屋敷が続き、さらにその西には藩校遵義堂を中心に書物庫・稽古場・手習所・矢場などの施設が並ぶ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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