横須賀村(読み)よこすかむら

日本歴史地名大系 「横須賀村」の解説

横須賀村
よこすかむら

[現在地名]横須賀市大滝おおだき町一―二丁目・ほん町一―三丁目・緑が丘みどりがおか汐入しおいり町一―五丁目・坂本さかもと町一―六丁目・稲岡いなおか町・くすうら町・とまり町・小川おがわ町・新港しんこう町・若松わかまつ町一―三丁目・日の出ひので町一―三丁目

三浦半島東岸の中ほどに突出た小半島とそのつけ根部分からなる。北側の田浦たうら村・長浦ながうら村の港地帯とともに良港の地形をなす。北は逸見へみ村、南は深田ふかだ村・不入斗いりやまず村に接する。

「吾妻鏡」建保三年(一二一五)三月五日条に「将軍家為花、御出于三浦横須賀」とあり、源実朝が執権北条義時以下を従え、横須賀に花見遊覧に出かけ、三浦義村一族らが将軍一行の接待をした。半島部東南の楠ヶ浦に三浦一族の崇敬した十二天じゆうにてん社と、その近くに長峰ながみね城があったというが、詳細は不明。


横須賀村
よこすかむら

[現在地名]東海市横須賀町・高横須賀たかよこすか

伊勢湾東岸の砂堆地帯にあり、南北に走る西浦にしうら街道に沿って発達。北は大里おおさと村、東は木田きだ村・加木屋かぎや村と接する。「寛文覚書」に「木田之庄横須賀村 枝郷馬走瀬」とあるように、内陸部を横須賀、海岸部をその枝郷の馬走瀬まはせとよんだ。「保元の頃よりや馬走瀬の里と呼来りし」と「尾張名所図会」にある。延宝三年(一六七五)には馬走瀬は横須賀と改称された(名古屋市史)。徳川光友は、寛文六年(一六六六)海水浴のために村の北海岸に御殿を構えた。宝暦六年(一七五六)以来御殿一帯を管理している成瀬半太夫に対し、安永三年(一七七四)横須賀村庄屋彦兵衛らが御殿跡の細江ほそえおよび御洲浜おすはまを埋めて田にしたいと願出た(古今綱領目録抄)

「寛文覚書」によれば、概高は一千七〇六石余、田七一町八反余・畑は三二町一反余。


横須賀村
よこすかむら

[現在地名]八日市場市横須賀

八日市場村・下富谷したとみや村の南に位置する。集落は水田と沼地に囲まれている。当地の長徳ちようとく寺が所蔵する不動明王立像の天文二年(一五三三)四月吉日の胎内墨書銘に「願主下総国匝瑳横須賀長徳寺住持長印」とみえる。また同寺が所蔵する薬師如来立像の慶長一九年(一六一四)一一月二四日の台座墨書銘には「下総国匝瑳郡南条庄横須賀薬師如来」と記される。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳に村名がみえ、旗本福井領二〇〇石・同多田領一四三石・同曲淵領一三〇石・同松平領三二石で、高組に属した。


横須賀村
よこすかむら

[現在地名]吉良町上横須賀かみよこすか下横須賀しもよこすか

北は岡山おかやま村、東は木田きだ村・小牧こまき村、南は冨田とみだ村に接し、西は矢作古やはぎふる川をもって天竹てんぢく(現西尾市)と境する。享禄(一五二八―三二)の頃岡山の花岳かがく寺にいた上総の人山崎彦次郎が、草野を開拓したのが始まりという(福泉寺文書)。永禄(一五五八―七〇)の頃この地に綿花が作られ、綿打の郷とよんだという(春日神社棟札)


横須賀村
よこすかむら

[現在地名]松戸市横須賀・横須賀一―二丁目・大金平おおがねだいら新松戸しんまつど五丁目

大谷口おおやぐち村の西、江戸川左岸の低地が下総台地に入り込む谷津の入口辺りに位置する。集落は同村からひれさき(現流山市)へ向かう往還に沿って並ぶ。「本土寺過去帳」には二〇日の妙経に永享一〇年(一四三八)正月の年紀があり、「ヨコスカ」と注記があるのをはじめとして、室町期から江戸初期にかけての年号がみられる当地に関する結縁者が散見する。慶安年間(一六四八―五二)頃の成立といわれる高城胤忠旧知行高付帳に村名がみえるが、高の記載はない。寛文三年(一六六三)旗本伊吹氏が当村に六石の知行を与えられ(「諸家系譜」内閣文庫)、元禄一一年(一六九八)以前には本多氏(元禄元年大名に列す)の領分となっていた(本多四公日記)


横須賀村
よこすかむら

[現在地名]利根町横須賀

大平だいへい村の南に所在。古くは相馬御厨のうちであったと考えられる。相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図(島津家文書)によれば胤綱の長女は三河の足利氏に嫁し、父から与えられた所領は秋田氏に移った。弘安八年(一二八五)霜月騒動で秋田氏は滅亡し、室町時代は鎌倉公方の領有に帰したと思われ、永徳二年(一三八二)の足利氏満寄進状(別願寺文書)

<資料は省略されています>

とあり、氏満から鎌倉の別願寺に横須賀村が寄進されている。


横須賀村
よこすかむら

[現在地名]豊橋市横須賀町

下地しもじ村の西、豊川に沿ってある。「鹿菅村誌」に「横須賀ハ志賀須香ノ里ニ属ス、天文九年庚子大潮ニテ検地帳残ラス流失ス、天正元年以前横洲村と称ス」とある。三河国吉田領人馬役割帳(島原市本光寺蔵)に載る慶長九年(一六〇四)の検地高は三四七石余で、うち天王領四石、くわんきいん領二石がある。


横須賀村
よこすかむら

[現在地名]浜北市横須賀

長上ながのかみ郡に所属。中条なかじよう村の北東馬込まごめ川上流域左岸に位置する。江戸時代の支配領主の変遷中条村に同じ。松平忠頼領郷村帳では高一七四石余、田五町七反余・畑一九町余。正保郷帳では畑方一五三石余。廷宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳では高一五三石余、家数三八。元禄郷帳では高一八一石余。天保郷帳では高二〇五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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