日本の城がわかる事典 「大館城」の解説 おおだてじょう【大館城】 秋田県大館市にあった平山城(ひらやまじろ)。鎌倉時代以来、比内(ひない)地方を領有していた浅利(あさり)氏の城である。大館盆地の中央部に位置し、長木川左岸の河岸段丘の上に築かれていた。戦国時代末期、比内地方を制圧した浅利則頼(のりより)の次男の勝頼により築かれたとされている。浅利氏は秋田氏(安東氏)に従っていたが、徐々に力をつけ独立を図るようになり、旧主家と対立し、その後は南部氏、津軽氏(大浦氏)の入り乱れる係争地となっていた。則頼の死後、兄の則祐が家督を継いだが、兄と対立した勝頼は檜山城(ひやまじょう)(能代市)の安東愛季(ちかすえ)に内応し、則祐を自害に追い込んで家督を継いだが、1583年(天正11)に愛季により謀殺されて浅利氏は断絶した。愛季は1585年(天正13)、この城を攻略して城代を置いている。その後、南部氏がこの地方に進出し、この城を奪うなど変転があったが、結果的に秋田氏が戦いを制し、1590年(天正18)、豊臣秀吉の奥州仕置により秋田氏に属すことになった。秋田氏は関ヶ原の戦いの後に常陸国に移封となり、常陸から秋田に国替えとなった佐竹氏の城となった。元和の一国一城令では、横手城とともに例外として、正規の城としての存続が認められ、藩領北部の統治の拠点として明治維新まで存続した。しかし、戊辰戦争で南部氏の大軍により攻撃された際、大館城代の佐竹義遵(佐竹大和)は自ら城に火を放ったことで、堀などの遺構を残して全焼した。現在、堀と土塁、石垣の一部が残っており、本丸跡は桂城(けいじょう)公園として整備されている。佐竹氏の整備した大館城は、幕府を憚ってのことか、本城の久保田城(秋田市)同様、石垣を用いず土塁を主体にしている。JR花輪線東大館駅から徒歩約15分。またはJR奥羽本線大館駅からバス約7分。◇桂城(かつらじょう)とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報