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久保田城 くぼたじょう

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日本の城がわかる事典の解説

くぼたじょう【久保田城】

秋田県秋田市にあった平山城(ひらやまじろ)。江戸時代に久保田(秋田)藩主佐竹氏の居城、同藩の政庁となった城である。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。石垣はほんの一部の土塁を中心とした城で、天守閣を持たず、その代わりに御出書院と呼ばれる建物がつくられた。石垣や天守がないのは幕府を憚ったからとも、旧領の常陸の築城法を踏襲したからとも、石垣を組む技術者がいなかったからともいわれている。1602年(慶長7)、70万石の常陸の大大名であった佐竹氏は、関ヶ原の戦いで東軍に与せず中立を保ったことから秋田郡久保田(現在の秋田市を中心とした一帯)20万5800石へ減封のうえ、国替えとなった。この年、久保田藩初代藩主となった佐竹義宣は、かつて安東氏(秋田氏)が居城としていた湊城に入り、翌年5月に窪田(久保田)の神明山に新城の建設を開始した。1620~30年代に、城と城下の町割がほぼ完成した。当初、その地名から窪田城と呼ばれていたが、1633年(寛永10)から1645年(正保2)にかけて 久保田城と改称している。1868年(明治1)の戊辰戦争では、久保田藩は新政府側に与したことから、幕府方の庄内藩の攻撃を受け、城から12km地点まで迫られたが、仙台藩や米沢藩が新政府に降伏したことから庄内藩の軍勢は撤退し、城は破壊を免れた。その後、同城は兵部省(のちの陸軍省)の管轄となり、また本丸には秋田県庁が置かれたこともあったが、1880年(明治13)の秋田市の大火で、城内のほとんどの建物が焼失した。現存している久保田城の遺構は御物頭御番所のみで、本丸新兵具隅櫓(すみやぐら)や本丸表門はのちに再建されたものである。その後の市街の再建で、濠なども埋め立てられるなどして、今日の官庁街がつくられた。また、城の一部は千秋公園として整備され、県民会館、秋田市立中央図書館明徳館、平野政吉美術館などが建設された。公園内には佐竹氏および藩政時代の歴史史料を展示する佐竹史料館がある。JR秋田駅から徒歩約15分。◇矢留城、葛根城、秋田城とも呼ばれる。ただし、古代の城柵の秋田城(同市寺内大畑)と混同を避けるため、秋田城を用いず、久保田城と称されることが多くなっている。

出典|講談社
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世界大百科事典内の久保田城の言及

【久保田】より

…現在の秋田市。1602年(慶長7)佐竹氏は常陸から秋田の地に転封を命ぜられ,入国当初はこの地の前領主秋田氏の居城であった湊城(土崎)に入ったが,翌年神明山に新たに築城を命じ,翌04年移転し,この新城を久保田城と称した。城は天守閣がなく,石垣もなく,土塁だけのつくりであった。…

※「久保田城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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