回船の船頭として、1783年1月(旧暦の1782年12月)に伊勢国・
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江戸後期の漂流者。幸太夫とも書く。伊勢国亀山藩領南若松村(現,三重県鈴鹿市)亀屋四郎次の子。兵蔵といったらしいが,父方親戚の家を継ぎ大黒屋光太夫と改めた。木綿商売を営む。天明2年12月(1783年1月)白子(しろこ)港の廻船神昌丸に木綿,米などを積んで江戸に向かう途中難船し,8ヵ月後アレウト(アリューシャン)列島のアムチトカ島に漂着した。87年ロシアの毛皮商の手代に連れられてカムチャツカに渡り,チギリ,オホーツク,ヤクーツクを経て,89年2月イルクーツク着。そこでペテルブルグ学士院会員のガラス工業家エリク・ラクスマンの知遇を得,91年ペテルブルグに同行して女帝エカチェリナ2世に謁見,帰国を許され,翌年エリクの子で遣日修交使節のアダム・ラクスマンの船で根室に帰着した。長崎入港許可証を与えられて使節が帰ってのちに江戸に送られ,将軍家斉,松平定信らに見聞を伝え,その後は番町の薬園で一生を終えた。光太夫はカムチャツカではフランスの航海家レセップス(スエズ運河開削者のおじ),ペテルブルグではロシア政財界の有力者や学者・教育者たちと交流し,政治・経済・社会・文化の諸施設を視察した。帰国後は大きな制約のもとにおかれながらも,その知識を直接有志の人々に伝達した。また彼の談話をもとにした《北槎異聞(ほくさいぶん)》《漂民御覧之記》《北槎聞略》の写本を通じても,鎖国下での国際認識の発展に大きく貢献した。
執筆者:林 基
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ロシアから帰国した江戸後期の漂流民。伊勢(いせ)国河曲(かわわ)郡南若松村(三重県鈴鹿(すずか)市)の商家に生まれる。幸太夫とも書き、同村の亀屋の養子となり兵蔵を名のったともいう。1782年(天明2)12月伊勢白子(しろこ)浦の彦兵衛持ち船神昌丸の船頭として同浦を出船し江戸に向かったが、途中暴風にあい、翌年アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。ロシア人に救助され、アムチトカ島、カムチャツカ、イルクーツクで暮らし、1791年ペテルブルグでエカチェリーナ2世に拝謁し、帰国を嘆願した。翌92年(寛政4)遣日使節アダム・ラクスマンに伴われて帰国の途につき、9月3日蝦夷(えぞ)地根室(ねむろ)に入港した。翌年江戸に送られ、取調べや審問を受けたのち、江戸城内吹上御苑(ふきあげぎょえん)に召し出され、将軍家斉(いえなり)はじめ、老中松平定信(さだのぶ)以下諸臣列座のもとにロシア事情について質問された。光太夫の話をまとめたものとしては、篠本廉の筆録にかかる『北槎異聞(ほくさいぶん)』や将軍の侍医桂川甫周(かつらがわほしゅう)がまとめた『北槎聞略(ぶんりゃく)』『漂民御覧之記』が著名である。光太夫は幕府の番町薬園内で後半生を送り、文政(ぶんせい)11年4月15日に没した。
[小林真人]
『亀井高孝著『大黒屋光太夫』(1964・吉川弘文館)』
(春名徹)
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1751~1828.4.15
近世後期の船頭・漂流民。伊勢国安芸郡白子(現,三重県鈴鹿市)生れ。1782年(天明2)12月白子浦を出帆して江戸に向かった神昌丸が,遠州灘で暴風雨にあい漂流,翌年アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。4年間在島したのちカムチャツカに移り,89年(寛政元)イルクーツクに到着。キリル・ラクスマンの知遇をえ,91年ペテルブルクを訪れ女帝エカチェリーナ2世に拝謁,帰国を許される。92年キリルの子アダム・ラクスマンの根室来航にともなわれ,小市・磯吉とともに送還された。小市は根室で死亡したが,光太夫・磯吉の2人は江戸番町薬園に軟禁された。桂川甫周(ほしゅう)が光太夫から聴取した「北槎聞略」は貴重なロシア情報となった。
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…彼はバイカル湖東部までの自然と民族に関する多くの資料を集めたが,その結果は《ロシア帝国各地方の旅》(1771‐76),《モンゴル諸民族の史料集成》(2巻,1776‐1808),《全世界言語比較辞典》(2巻,1787‐89)などとしてまとめられた。この辞典には270余の日本語の単語が含まれているが,これは当時ペテルブルグに滞在していた伊勢の漂流民大黒屋光太夫が監修を依頼されたものである。 1841‐44年および45‐49年,フィンランド出身の学者カストレンMathias Alexander Castrén(1813‐52)による西シベリアの民族と言語の調査が行われた。…
…一方,海岸部の中心地白子は,紀州藩領で代官所が置かれ,藩米や伊勢木綿の積出港として栄えた。当地出身の大黒屋光太夫が1782年(天明2)白子を出港してのち遠州灘で遭難しロシアに漂着したのは,江戸への藩米輸送の途次のことであった。第2次大戦中,町村の集合体が市となった背景には,海軍航空基地,海軍工廠,陸軍飛行場などを設置した軍の要請があった。…
…【満谷 マーガレット】
[ロシア・ソ連邦,東欧]
東方への拡大を続けるロシアは17世紀中葉までにオホーツク海に達し,18世紀には千島への進出,日本との通商を図った。日本についての情報は,オランダなどの西ヨーロッパの文献,および日本人漂流者(伝兵衛,大黒屋光太夫など)から得ていた。18世紀初頭の1705年,ピョートル大帝の命でペテルブルグに日本語学校が設けられ,漂流民伝兵衛を教師に任じ,きたるべき日本との交渉に備えた。…
…陸軍士官学校卒業後,1786年から95年までオホーツク海北岸のギジンスクの守備隊長をつとめた。父親はフィンランド出身の博物学者エリク・ラクスマンErik(Kirill) Gustavovich Laksman(1737‐96)で,イルクーツク居住中,日本人漂流民大黒屋光太夫らと親しく交際したことで知られる。1791年父エリクの奔走によってロシア政府が光太夫らの帰国を許すとともに日本との通商関係の樹立を企てたとき,次男アダムは父の推薦によって使節に任じられた。…
※「大黒屋光太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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