失認(読み)しつにん(英語表記)agnosia

翻訳|agnosia

精選版 日本国語大辞典 「失認」の意味・読み・例文・類語

しつ‐にん【失認】

〘名〙 (Agnosie の訳語) 脳外傷、脳出血脳腫瘍などが原因で大脳皮質の一定部位に障害がおき、感覚器および神経などの障害がないのに、知覚された対象を認識する能力が欠けた状態。感覚消失、精神聾などはこれに属する。失認識。失認症。認知不能。
※偽原始人(1976)〈井上ひさし〉容子先生「容子先生は〈相貌失認〉にかかっているのだそうだ。ひとの顔の見分けがつかないのだ」

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デジタル大辞泉 「失認」の意味・読み・例文・類語

しつ‐にん【失認】

《〈ドイツAgnosie》種々の感覚に異常がみられないのに、人や物を認識することができない状態。大脳皮質の障害によって起こる。

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最新 心理学事典 「失認」の解説

しつにん
失認
agnosia

ある感覚を介した場合だけ対象が認知できない状態を指す。ただし,それがその感覚の基本的な機能障害,意識障害,全般性認知機能低下などによるものでないことを前提とする。たとえば視覚性失認では,基本的な視覚機能は保たれているのに,視覚を介してのみ対象が何であるかわからない。すなわち,ある物の形を見てもそれが何であるかわからないが,手で触ったり,特徴的な音を聞いたりすれば即座にわかる。失認として知られているものに,視覚性失認,聴覚性失認,触覚性失認がある。これらの失認はそれぞれ見た物,聴いたもの,触った物の名前が言えないことで気づかれることが多い。複数の感覚で障害の見られる多様式失認の報告もある。また,前述の失認の定義には当てはまらないが,身体失認病態失認という語も用いられている。

【視覚性失認visual agnosia】 視覚性失認の中核症状は,「形態から対象を同定できない」ことである。視覚刺激でも,特徴的な動きからは対象の同定が可能である。障害される機能水準に応じて,古典的には知覚型視覚性失認apperceptive visual agnosiaと連合型視覚性失認associative visual agnosiaの二つに分けられていたが,近年では両者中間に位置する統合型視覚性失認integrative visual agnosiaを加えて三つに分類されることがある。知覚型視覚性失認は対象の形態の認知そのものが不十分な状態で,対象を模写することができない。統合型視覚性失認は対象の部分的な認知はできるが,対象の形態を全体としてとらえるのが困難な状態で,模写には非常に時間がかかる。連合型視覚性失認は形態の認知は良好だが,それを意味に結びつけられない状態で,模写はすばやく正確である。

 視覚性失認が特定の対象にだけ生じる場合がある。物体失認visual object agnosiaでは実物品,画像ともに視覚性認知は不良だが,画像失認picture agnosiaでは線画や写真の認知は不良なものの実物品の認知は可能である。特定の意味カテゴリーの対象に生じるものに相貌失認prosopagnosia,街並失認landmark agnosiaがあり,個を同定できないという特徴がある。すなわち人間の顔,建物ということはわかっても,だれであるか,どこの建物であるかがわからなくなる。相貌失認では身近な人間の顔を見てもだれであるかわからないが,声や立ち居ふるまいからはすぐにだれかわかる。街並失認では見慣れた風景を見てもどこであるかわからなくなり,道に迷う。

 視覚性失認の神経基盤として,一次視覚野を除く高次視覚野およびその皮質下の病巣が関与している。両側大脳皮質損傷による皮質盲や大脳性弱視からの回復過程で見られることもある。知覚型視覚性失認は両側後頭葉の広汎な病巣に関連し,一酸化炭素中毒による症例が多い。統合型視覚性失認は両側の後頭葉下部病巣を含む例が多く,水平性上半盲(上半分の視野欠損)をしばしば伴う。連合型視覚性失認は両側後頭葉病変例が主だが,左一側後頭葉病変例もある。相貌失認は右紡錘状回病巣に,街並失認は右海馬傍回病巣に関連することが知られている。

【聴覚性失認auditory agnosia】 純音聴力は保たれているのに,ことばや音楽などが認知できない状態を指す。すべての種類の聴覚刺激(言語,環境音,音楽)の認知が障害される場合を広義の聴覚性失認とよぶ。また,特定の刺激,すなわち言語音,環境音(非言語性有意味音),音楽のどれかに限局した聴覚性認知障害も報告されている。言語音が選択的に認知できなくなる状態を純粋語聾pure word deafness,環境音に特異的な聴覚性認知障害を狭義の聴覚性失認(環境音失認),音楽認知能力の失われた状態を感覚性失音楽sensory amusiaとよぶ。経過中に非特異的障害から特異的聴覚認知障害に変化する場合や,特異的聴覚認知障害以外に程度は軽いが,ほかの聴覚刺激に対しても障害を示す例がある。

 聴覚性失認は側頭葉皮質,皮質下の病巣で出現する。環境音失認の純粋例はまれで,右側頭葉または両側側頭葉病巣の報告がある。純粋語聾は左または両側の側頭葉皮質,皮質下の病巣をもつ。感覚性失音楽も側頭葉病巣に関連するが,病巣側や病巣の広がりにより音楽のどの要素(メロディ,リズム,ピッチなど)が障害を受けるかは異なる。

【触覚性失認tactile agnosia】 要素的感覚(触覚・冷覚・温覚・痛覚)に障害がないのに,「触った物が何かわからない状態」である。触覚には,自分では手を動かさずに対象が動く受動性触覚passive touchと,自分の手を動かして触覚性に探索運動をする能動性触覚active touchがある。高次の触覚の障害として,受動性触覚により2次元対象を認知できない線図形認知障害agraphesthesia,能動性触覚により3次元対象の形態を正確に認知できない立体覚認知障害astereognosis,形態を認知してもそれが何であるかわからない触覚性失認がある。触覚性失認を広義にとらえる立場では,立体覚認知障害を知覚型触覚性失認apperceptive tactile agnosia,狭義の触覚性失認を連合型触覚性失認associative tactile agnosiaとよぶ。触覚性失認に関連する病巣は主に頭頂葉の皮質および皮質下である。知覚型触覚性失認は中心後回病巣が中心で,連合型触覚性失認は下頭頂小葉病巣を含む。中心後回損傷で素材弁別の障害が,その後方の損傷で形態弁別の障害が生じるとする報告もある。

【身体失認asomatognosia】 自己の身体とその状態に関する認知の障害で,一つの感覚様式に限定されない。身体失認は身体の半分(病巣の反対側半身)に生じる半身性のものと,非半身性のものに分けられる。半身性のものには,自分の半身に無関心となり,動かそうとせず,不自然な肢位になっていても直そうとしない半身無視hemiasomatognosiaや,半身喪失感・半身変容感・半身異物感などを含む半身幻覚・妄想がある。半身性の身体失認は右半球病巣により左半身に生じることが多い。非半身性のものには,切断された,または感覚入力のない身体部分があたかも存在するように感じる幻肢phantom limb,自分および第三者・全身図などの身体部位の空間関係を認知できなくなる自己身体部位失認autotopagnosiaがある。手指失認finger agnosiaは,左右障害,失書,失算とともにゲルストマン症候群Gerstmann syndromeの四つの特徴の一つとされる。自己身体部位失認が,手指のみに出現したのが手指失認であるとする意見もある。しかし,ゲルストマン症候群における手指失認は手指と手指のそれぞれの名前の連合障害を含み,自己身体部位失認の一型とは考えにくい。

【病態失認anosognosia】 脳損傷により生じた自分の神経学的・神経心理学的症状を正しく認識できない状態。半側性のものとして,片麻痺の病態失認,半側視野が見えなくなる同名性半盲に関する病態失認がよく知られている。非半側性のものとして,盲・聾に対する病態失認をアントン症候群Anton's syndromeとよぶ。患者は盲を言語的に否定するだけでなく,あたかも見えているかのように行動しようとして失敗する。失認,失語,健忘などの高次脳機能障害に対して病態失認を呈することはまれではない。一人の患者において,ある症状は認知できるのに,他の症状は認知できない場合があり,病態失認の機序は一様ではないと考えられる。 →失行 →側頭連合野 →頭頂連合野
〔鈴木 匡子〕

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改訂新版 世界大百科事典 「失認」の意味・わかりやすい解説

失認 (しつにん)
agnosia

失語症や失行症とならぶ高次の精神機能障害の一型で,脳の局在障害によって起こる。意識障害も痴呆もなく感覚機能も正常で,対象の存在を知覚することはできるが,ある特定の感覚に関してはその対象が何であるかを認識できない症状をいう。たとえば視覚失認の一型である相貌失認では,傍らにいる母親の顔形は見えていても,それを視覚的に母親の顔と識別できず,表情もわからない。しかし,声を聞くと直ちに母親であることを認めるものである。視覚失認にはそのほかに,物は見えるがなにものか認識できない視覚性物体失認(精神盲),情景画の細部はわかるが全体としてどのような場面かわからない同時失認,色をその種類と濃淡で分類できない色彩失認,指で文字をなぞれば読めるが,見ただけでは読めない純粋失読がある。視空間失認には,変形視,大視症,小視症などの視空間知覚障害,注視点が一定方向に固着し,ある一つのものしか見えないとか注視したものをつかもうとしても手が別の方向にそれてしまうというバリント症候群,視空間の半分とそこにあるものを無視し,無視したことに気づかない半側空間失認,家までの道順が描けない地誌的記憶障害,部屋の見取図が描けない地誌的失見当識がある。聴覚失認には音や音楽や会話は聞こえても,その性状や内容がわからないという型があり,それぞれ精神聾(ろう),失音楽,純粋語聾という。感覚性失語症は内言語障害を併せもつことから,失認とは区別される。触覚失認は表在感覚にも深部感覚にも障害がないのに,触覚で対象を認識できないものである。特別な失認としては,手指失認を中核症状とするゲルストマン症候群,体の半側を認知できない半側身体失認,全身体の部位を認知できない身体部位失認,痛み刺激に対して不快感は感ずるが,適切な反応ができない痛覚失認,盲目や聾啞,片麻痺など障害のあることを認めようとしない病態失認(アントン=バビンスキー症候群あるいは疾病否認)がある。

 近年,失認を視・聴・触・痛覚などの脳の感覚野とこれを言語的に認知する言語野との離断症候群として解釈する動きがある(ゲシュウィントN.Geschwind,1962)。脳梁の障害で左視野の純粋失読や左精神聾が起きるのがその例である。責任病巣は視・聴・触覚などの脳の感覚野を取り巻く連合野や右半球の感覚野から左半球にある言語野への連絡路である脳梁にある。それは感覚野で受けた知覚は連合野で言語野や記憶の機構の関与のもとに解釈され認識されるからである。視覚失認は鳥距溝(17野)を囲む後頭葉(18,19野)のとくに基底部の一側性ないし両側性障害であり,視空間失認は背側頭葉-後頭葉移行部の一側性ないし両側性障害であることが多い。聴覚失認はヘッシュル横回に接する22野の両側性障害で起き,触覚失認は反対側頭頂葉障害で起きる。両側身体失認は優位半球の頭頂-後頭葉障害,半側身体失認は劣位半球の頭頂-後頭葉障害で起きる。手指失認,視覚性物体失認,色彩失認,同時失認など具体的な事物の失認あるいは概念的,知的な機能に関係する失認は優位半球との関連が深く,相貌失認,半側空間失認,半側身体失認,地誌的失見当識,病態失認など,情動や注意の障害あるいは体の自己所属性や自己と外界の空間的関係の障害は劣位半球障害との関連が深い。
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内科学 第10版 「失認」の解説

失認(大脳皮質障害の特徴)

(3)
失認(agnosia)
 視覚や運動感覚などの感覚情報は大脳に達しているにもかかわらず,それが認識されない状態である.
1)視空間失認:
右中大脳動脈領域の梗塞により生じる頭頂葉病変においてみられる左半側空間無視が典型であり,視野の左半分を無視してしまう.このような患者では眼球が右に偏倚する.頭部も右に回転させた姿位を取ることが多い.
2)病態失認:
自分の身体の明らかな麻痺,盲などの存在を否定する状態である.麻痺の否認はしばしば半側空間無視に伴って生じる.
3)自己身体部位失認:
自己の身体部位の名が言えなかったり,麻痺肢が自分のものであることを認識できない現象である.[中野今治]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「失認」の意味・わかりやすい解説

失認
しつにん
agnosia

視力,聴力,触力などの一次的な知覚機能に障害はないにもかかわらず,対象を把握できない認知の障害をいう。失行や失語 (→失語症 ) と同様に大脳の器質的損傷によって生じる。障害を受ける感覚の種類によって,視覚失認,聴覚失認,触覚失認などに分けられる。ほとんどの場合これらは互いに独立に生じる。視覚失認は,認知できない対象の相違によって,さらに物体失認,相貌失認,色彩失認,失読,空間失認などに区別される。

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世界大百科事典(旧版)内の失認の言及

【脳梗塞】より

…多発性に小さな梗塞が散在し痴呆を呈する場合がある。そのほか障害される部位によっては,失語や失行(四肢,顔,舌などに運動機能の障害がなく,なすべき動作はわかっているのに目的にかなった動作ができないもの),失認(知覚,感覚の障害はないが対象を認知できないもの)などの症状を呈する。失語は患者の優位大脳半球(右利きの人の場合は左側)の障害によって生じ,感覚性失語(言語理解が主として障害されるもの),運動性失語(言語理解は保たれているが自分の言語を表出する機能が主として障害されるもの)などに分けられる。…

※「失認」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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