学校建築(読み)がっこうけんちく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「学校建築」の意味・わかりやすい解説

学校建築
がっこうけんちく

学校建築をもっとも広くとらえれば、屋外運動場や屋外環境整備を含めた学校諸施設がその構造要素として含まれる。学校施設づくりという用語もたびたび使用される。しかし、狭義には校舎、講堂、屋内運動場から構成される建築物をさし、なかでも校舎建築が学校建築の中心部分を占めるといってよい。学校施設は公教育の実施上必要とされるものであり、必然的に財政計画を伴うことになるが、それは往々にして学校建築の理想と対立する。学校建築の性質は、教育の目的・目標や方法、教育課程、児童・生徒の編成方法などへの適合性によって決定、評価されるべきものであり、学校建築のあり方が教育方法などを一方的に規定するものであってはならない。したがって、学校施設がもつべき教育機能を可能な限り保障しながらも、それに伴う財政計画との対抗関係から生じる問題の解決が、建築計画に際して要請される。

[笠間賢二]

計画上の留意点

建築計画は、学校の種類の決定、校地の選定、所要施設の決定、財政計画の樹立などを経て行われるが、その際の留意点は以下のとおりである。

(1)校地は通学距離、地形や地勢、災害防止、自然的・社会的環境などを考慮して適切な場所を選定する。

(2)教育思潮や社会状態の変化に伴って将来おこりうる学校教育の内容や形態上の新たな要求、また児童・生徒数の将来的推移を予測して、施設、設備の適応性や融通性を考慮する。

(3)児童・生徒の健康増進と教育的能率向上のために、暖房、換気、採光、照明、衛生などの保健衛生上の施設、設備を重視する。

(4)校舎の構造や設備には、耐震、耐火、避難のための考慮、ならびに児童・生徒の日常の集団活動から惹起(じゃっき)されやすい危険や傷害の防止のための配慮が払われる必要がある。

(5)限定された費用内で、なるべく理想に近い内容整備が図れるように効率的な計画をたてる。

[笠間賢二]

教室の組織づけの類型

教室は教授・学習が行われる学校の基礎的施設であり、児童・生徒にとっての学校生活の中核的な場である。これを内容的にどう充実させるかは、彼らの心身の発達段階や教育課程実施上の観点から考慮されなければならないが、教育内容の専門的分化にしたがって、数多く要求される特別教室をどのように扱うかが、学校建築の全体計画との関連で問題となる。建築費を抑えつつも、(1)施設の質を高め、(2)純粋率(その特別教室が本来の目的のために使用された割合)を高め、(3)利用率(特別教室の使用可能時間に対して実際に使用された時間の割合)を向上させることが学校建築に求められる。実際には次のような方法がある。

〔1〕普通教室・特別教室併用型 学級数と一致する普通教室のほかにいくつかの特別教室をもつ。これは日本の学校で普通にみられる型である。児童・生徒にとって安定したホームルームをもつことができ、移動が少なく、移動の際にも荷物が少なくてすむという長所がある。しかし反面、特別教室の充実に伴い、特別教室使用中は普通教室があいており、また全体の利用率が低下するという問題点をもつ。

〔2〕教科教室型 普通教室をもたず、すべての教室が特定教科のために設けられる。教師は各教科教室に固定化されるので、児童・生徒が時間ごとに移動することになる。各教室の純粋率を高めることができる反面、生徒の荷物を携えた移動による喧騒(けんそう)や混乱を招きやすい。欧米の中・高校ではこの型が普及しており、日本でもこの型をとる学校が存在する。とくに教科担任制をとる中学校以上では、この型の採用により、各教科の教育効果をあげることができる。

〔3〕総合教室型 各学級がそれぞれ固有の教室をもち、しかもそこで全教科を実施できるように設備を充実させる、いわば万能型教室から構成される。したがって特別教室はない。教室総数は学級数と同じですみ、利用率を高めることができるが、各教室の設備の充実、質の向上が建築費との兼ね合いで問題となり、この型が採用されても往々にして似て非なるものになることが多い。しかし小学校低学年にはこの型が適しており、イギリスなどではこの例がみられる。

〔4〕プラトーンPlatoon型 これは1916年からアメリカミシガン州で実施されたもので、過密学級対策として、施設と教育課程とを調整して教室の利用率を高めることに動機があった。全校の学級を2分団に分け、一方が普通教室を使用している間、他方は運動場、体育館、特別教室を使い、たとえば昼休み時間を挟んで両分団が一斉に交代する。普通教室を使用している「静」の分団は各教室に固定されるが、特別教室や運動場を使用している「動」の分団は時間ごとに分団内を移動する(特別教室から運動場へ移動するというように)。この型では教室総数が少なくてすみ、また特別教室の質を高めることもできる。日本でも第二次世界大戦後の教室不足の時代にいくつかの学校(山形市立第五中学校、東京都目黒区立第一中学校など)で試みられた。しかし、施設を半々に使用する時間割の組み方や適切な教師数の確保が困難なため、現在ではこの例をみることはできない。

〔5〕ドルトンDalton型 アメリカの教育家ヘレン・パーカーストHelen Parkhurst(1887―1973)によって創始され、1920年からマサチューセッツ州ドルトンのハイスクールで実施された。教育方法としては、学年や学級の枠をきわめて緩くし、生徒が自ら教科やその進度を選択し、そのコースが終われば次のコースに移るという、いわば単位制に近いものである。教室は、生徒数が教科によりまた年度により異なるので、大小さまざまの大きさのものが用意される。日本では大正期に教育方法として導入され実施されたが(東京の私立成城小学校など)、施設面への影響はほとんどなかった。現在では大学にこの型がみられる。

[笠間賢二]

運動場

学校建築をもっとも広くとらえれば、屋外・屋内運動場も含まれる。学校教育の範囲が、教室での知的教科教授に限定されないさまざまな領域に及んでいる今日、運動場の役割はますます増大している。それは単に体育の実技の場であるだけでなく、子どもの自由な遊び場でもあり、また特別活動や学校行事にも活用される。2023年(令和5)時点では、学校教育法施行規則によって、学校にかならず設けなければならない施設となっている。したがって運動場は学校全体の教育要求に対応して計画・設置される必要がある。屋外運動場は学校規模に応じた面積が必要とされ、位置は日陰にならないよう校舎の南側配置が適当である。また各種競技用の設備のほかに遊具設備も必要であり、また周囲の植樹帯や芝生などの環境整備も望まれる。屋内運動場は一般に体育館とよばれ、国庫補助の対象として必要面積基準が示されている。体育館は講堂と兼用されることが多く、競技用設備のほかに、映画・演劇・音楽・講演などのための設備も必要とされる。

[笠間賢二]

学校建築の歴史

近代的な学校建築は1872年(明治5)の「学制」に始まる。現存する長野県松本市の開智(かいち)学校(現在は教育博物館。2019年国宝に指定)は「完全ヲ期ス」という「学制」の原則の代表例で、中廊下両側教室配置の洋風校舎で、地方における文明開化シンボルでもあった。しかし、当時の劣悪な財政事情のもとで多数の学校を早急につくる必要から、以後の学校建築は、「主トシテ学校経済ニ注意シ……外観ノ虚飾ヲ去リ質朴堅牢(けんろう)ニシテ」(「小学校設備準則」1891)という基本方針のもとに、公共建築物としてもっとも単価の安い建物として常識化していった。1895年(明治28)には文部省(現、文部科学省)から「学校建築図説明及設計大要」が令達され、モデル設計図とともに校舎の配置法、教室形状、面積基準などが詳細に示された。また、同時に示された廊下の片側配置をめぐって、それを南北いずれの側とするかの論争があったが、「校舎衛生上ノ利害調査」報告(1902)により、衛生上の観点から北側廊下に統一され、学校建築は平面的にも定型化が進行していった。

[笠間賢二]

画一的な学校建築

これ以後、関東大震災(1923)や室戸台風(1934)の経験から、1934年(昭和9)に「学校建築物ノ営繕並ニ保全ニ関スル」文部省訓令が発せられ、学校防災上の措置がとられるに至り、定型化が完成した。木造の平屋か2階建校舎、一文字型・L字型校舎の敷地内北隅配置、北側廊下に沿った4間(約7.3メートル)×5間(約9メートル)=20坪(約66平方メートル)の教室の直列、校舎中央部の教員用玄関、管理部門(校長室、職員室など)配置という平面計画が第二次世界大戦前の学校建築をほぼ画一的に支配し、同時に教育方法の画一化にも拍車をかけた。

 第二次世界大戦後は、木造校舎(1956)、鉄骨造校舎(1955)それぞれについてJIS(ジス)(日本工業規格。現、日本産業規格)が制定された。しかしこの規格はその後あまり使用されず、かわって鉄筋コンクリート造校舎が主流となった。これについては1950年(昭和25)に、文部省と日本建築学会との協力により標準設計が作成され、文部省がモデル校を指定し奨励したこともあって、以来1980年代まで学校はこの標準設計に基づいて計画、建築されることが多かった。それは、7メートル×9メートルの教室を幅3メートルの片廊下に沿って並べるものであり、従来の木造校舎の平面計画に準拠していた点で、学校建築に対する考え方を大きく変えるものではなかった。ただ戦後の特徴として、「義務教育諸学校施設費国庫負担法」(1958)など関係諸法令の整備により、地方自治体の学校建設に対する国庫補助の制度がとられ、これが量的整備に役だったことに注目しておきたい。しかし一方では、質よりも量を重視したこうした施策が学校建築の定型化を進行させ、普通教室と若干の特別教室だけから構成される個性のない校舎を大量につくりだす結果を招いていった。また、建築が本来もつべき文化性や地域性を失わせ、教育活動のあり方をも規定していったことは否めない。

[笠間賢二]

学校建築の革新

そこで、1980年代以降は学校建築の革新が強く求められるようになった。その背景には、定型化され、画一化されすぎた学校建築への反省と、新たな教育要求――(1)児童・生徒の自ら考え、自ら判断し、自ら学習する力の育成、(2)児童・生徒の個性や能力、興味や関心を尊重した学習指導の個別化、(3)すべての人々が生涯にわたって学び続ける生涯学習の推進、など――がある。また、直線を基調とした、コンクリートとガラスから造られた従来の校舎建築は無味乾燥な閉鎖性をもち、子どもに心理的圧迫を加えているとの反省も聞かれるようになった。すでに1970年代から、教室とオープンスペースを融合した空間構成をもつ校舎(オープン・スクール)、大きな吹き抜けのホールや児童・生徒用のロビーやラウンジを備えた校舎、町並みの景観との調和を意識した傾斜屋根をもつ校舎など、新しい学校建築が出現するようになっていた。一方、行政サイドからも、1984年(昭和59)に多目的スペースに対する国庫補助がなされるようになり、文化性を備えた学校施設(文部省「学校施設の文化的環境づくりについて」1982)、教育方法などの多様化に対応する学校施設(文部省「教育方法等の多様化に対応する学校施設の在り方について」1988)などの提言もなされるようになった。

 こうした動きには、おおよそ次のような観点からその特徴を認めることができる。第一には教育方法の多様化に対応する学校施設という観点である。廊下と教室、教室と教室との壁を取り払ったオープンスペースや多目的スペースを設置し、これを視覚的にも空間的にも連続したスペースとして構成し(空間の連続性の重視)、単一の機能ではなく多様な機能に対応させようとするものである。また、多様な学習活動や学習形態(動的な学習活動や目的に応じた児童・生徒の弾力的編成)を可能にするとともに、さまざまな学習メディアを開放的に配置したメディアセンターとしても活用されている。

 第二は学校施設を学習の場だけではなく生活の場としてもとらえ、豊かな人間性を育む環境、健やかな身体をつくる環境として整備するという観点である。具体的には次のような試みがなされている。

(1)ゆとりをもてる環境づくり ロビー、ラウンジ、テラスの設置、吹き抜けのホールにみられるようなボリュームの変化をもたせた空間の創造、校内の植樹など。

(2)コミュニケーションを促す環境づくり ホール、屋内外のベンチコーナー、前庭、中庭、テラス、バルコニーの設置など。

(3)人間の感覚になじむ環境づくり 色彩のくふう、木材や壁紙を使用した内装、カーペットの床、板張りの天井、樹木豊かな屋外環境など。

 また、運動場に小山を造成したり、遊具やアスレチックフィールドを設置したり、中庭を利用するなど、遊びのなかで身体を育てる環境づくりのくふうもなされている。

 第三は象徴性・文化性をもち、地域に開かれた学校施設という観点である。象徴性・文化性という点では、地域の文化的蓄積(地域や学校の歴史・伝統)を反映したシンボルをもつ美しいデザインの採用、また壁画、レリーフステンドグラスなどの建物装飾や彫刻、絵画の展示など、学校施設への文化性の付与が試みられている。地域に開かれた学校という点においては、体育館や運動場、特別教室を夜間や休日に地域住民の利用に供することができるように、平面計画上も設計上もくふうすることが試みられている。

[笠間賢二]

今日の学校建築

日本の学校建築は、明治初年の一時期を除き、長く学校という施設目的の純粋性を保ってきた。しかし、1980年代以降は、行政サイドからの提言(文部省「学校施設の複合化について」1991)を背景に、とくに都市部において、学校を社会教育施設などとの複合的施設として建設する事例がみられるようになった。既存校舎の場合も余裕教室を社会福祉施設などに転用することが試みられている。また、環境への負荷の低減を図るために、太陽光発電設備を備えるなど、環境を考慮した学校施設(エコスクール)づくりも進められている。1990年代以降はとくに「インテリジェント・スクール」が標語として用いられるようになっている(文部省「文教施設のインテリジェント化について」1990)。これは、最新の科学技術の粋を集めたインテリジェント・ビル構想を教育の領域に及ぼしたものであり、文教施設の多機能化と高機能化を目ざしたものである。学校施設としてのあり方についても、1980年代の課題であったフレキシブルな学習スペースの確保、生活の場としての豊かな環境づくりの2点に加えて、コンピュータの導入などにみられる高度情報化社会に対応した学校づくり、「生涯学習社会への移行」(臨時教育審議会答申)という動向のもとで、地域の生涯学習の拠点として、その機能を十分に発揮できる学校づくりを進めていこうとする構想がある。しかしながら、教授・学習状況の最適化を図ろうとする学校のインテリジェント化は、試行錯誤によるリアルな問題解決過程を経なければならない児童・生徒の成長にとって、手放しで歓迎できるものかどうかは検討しなければならない課題であろう。

 いずれにしても、今日の学校施設は屋外環境の整備も含めて、単なる器ではなく、それ自体が教育機能をもつ豊かな教育環境として、また地域住民の学習・情報活動の拠点として整備されつつある。

[笠間賢二]

『菅野誠著『日本学校建築史』(1973・文京ニュース社)』『21世紀教育の会編『オープンプランスクール』(1974・講談社)』『建築学大系編集委員会編『建築学大系32 学校・体育施設』(1975・彰国社)』『青木正夫著『建築学計画8 学校Ⅰ』(1976・丸善)』『文部省文教施設部編『ニュー・スクール計画――教育方法等の多様化と学校施設』(1990・ぎょうせい)』『武田信夫著『懐かしの木造校舎』(1992・作品社)』『長倉康彦著『「開かれた学校」の計画』(1993・彰国社)』『上野淳著『未来の学校建築――教育改革をささえる空間づくり』(1999・岩波書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「学校建築」の意味・わかりやすい解説

学校建築 (がっこうけんちく)

近代以前の学校は,大学を除けば,多くは他施設(教会や修道院,王宮,兵営など)に付随し,独立した場合でも,他用途の建物を転用するかその形式や手法を借用して造られたものが多かった。

古代の建築で学校として用いられたものには,ギリシアやローマなどでパラエストラpalaestraあるいはギュムナシウムgymnasium(ともにラテン語)と呼ばれたものがある。いずれも本来はレスリングの訓練などの体育施設で,柱廊に囲まれた運動場と,その周囲に浴場や更衣室,談話室等を備え,運動の合間には柱廊の一隅や談話室などで修辞法や哲学の談義が交わされる習慣があり,しだいに学校的な性格を強めていった。しかしこれは公衆浴場の付属施設として造られ,独立した施設となることは少なかったと見られる。それでもこの運動場を中心とする基本構成は,近代の青少年教育施設のひとつの原型と見ることができる。修道院は中世西欧における最も重要な教育機関で,その後の中・高等教育施設の母体となった。建築的構成のうえでも,俗界から孤立した自己完結的な姿,礼拝堂を中心に展開する諸施設の配置法,回廊に囲われた中庭,中世風の建築様式までが,そのまま近代の私立学校などのキャンパスにとり入れられている。近世以後は,都市の発達とともに,独立した専用の教育施設が多くなるが,特に18世紀後半以降,産業革命の進展がその必要を倍加し,大量の下層市民子弟の教育のための学校が各地に新しく造られるようになった。

 当時の一般的な教育方式はいわゆる〈モニトリアル・システムmonitorial system〉と呼ばれるもので,全校生徒を一つの大部屋に収容し,1人の教師の指導のもとに,年長の生徒たちが助教monitorとしてグループ別に監督する方式であった。これは,同時に複数の教科指導ができるという利点もあって,イギリスのパブリック・スクールなどでは古くから行われていたものであるが,18世紀末から19世紀初めにかけて,主として経済的観点から体系化され,一時に数百人もの生徒を指導するという試みまで現れた。したがって当時の学校建築は,体育館のような大部屋一つあれば十分で,それに教師の居住室,やや豊かな学校では図書室,私立学校ならば礼拝堂と寄宿舎が付属するというのが一般的な姿であった。モニトリアル・システムの場合,黒板は必ずしも必要なく,教師のテーブルをとり囲むように生徒の座席が配置されることが多かった。生徒用の机が普及するのは,印刷術の発展により教科書が安価に入手できるようになり,またノート用の紙がゆき渡るようになってからのことである。

 産業革命はその一方で,より新しい学校建築の発展を促した。それは各都市に盛んに造られるようになった工業学校のような施設で,ここでは各教科ごとにその目的に沿った設備をもつ教室が準備され,それぞれに専任の教員が配置されるというかたちが現れる。これとは別に,ドイツの私立学校(ギムナジウム)などでは,早くから生徒を年齢・進度別のグループに分けて学級を編制する方式が行われており,教室ごとに黒板が置かれ,それに向かって生徒たちの机が配置される近代的な教室ができ上がっていた。18世紀の啓蒙思想家たちは,新しい学校のあり方についてさまざまな提言をのこしているが,それらの多くは著しく管理・監督的な教育観に貫かれていて,学校を俗悪な日常的環境から切り離し,むしろ刑務所や矯正施設的なもの(パノプティコン)としてとらえる傾向があった。それらはそのまま実現されることは少なかったものの,その後の学校観に大きな影響を与え,近代の公立学校にみる管理棟を中心に整然と対称的に展開する空間構成,同一の建物単位の繰返し,古典主義的な建築様式などはそのあらわれということができる。

 20世紀前半ころまでには,これらの要素が統合されて,40人前後の学級を収容する均一な教室群や,いくつかの特別教室を従えたいわゆる片側廊下式・分棟型の校舎ができ上がり,先進国のほぼすべてにゆきわたる。しかし第2次大戦後は,こうした均質な教室中心の,堅苦しい空間構成に反省が加えられ,学校を児童生徒の日常生活の場としてとらえ直そうとする動きが欧米を中心に現れ,教室を解体して子どもの生活に対応した流動的な空間とし,学年の区別を廃して融通性のある教育を行う試みも見られる。また,新しい教育・情報機器の導入などもあって,学校建築はますます多様化しつつある。
執筆者:

学制発布以後明治20年代までが,日本の学校建築の揺籃期である。当初寺子(小)屋や,教員の住宅を利用するものから,地方によっては,外人建築家の手になる疑似洋風の近代的学校建築まで建てられるなかで,1895年(明治28)に,文部省より《学校建築図説明及ビ設計大要》が刊行された。この内容は,いわば校舎の標準設計で,これからの学校建築のあるべき姿が,考え方と,実例で示されていた。日本の学校の校舎は,廊下に沿って同形の教室を並べる片側廊下型が良いとされ,普通教室の大きさは各種示されていたものの,やがて大正時代の初めに4間×5間の大きさに統一されるようになる源はこの《大要》であり,大正・昭和にかけての学校建築の定型化時代を律することになったのである。なお,教室南面,北廊下型と教室北面,南廊下型の2説が主張されたが,文部省は1901年前者を支持し,地域差による気候・風土を無視して全国的に北廊下型が採用された。また,1900年の第3次小学校令によって〈体操場〉の設置が義務づけられ,いわゆる校庭は,尋常小学校では子ども1人当り1坪(約3.3m2)以上,高等小学校では1.5坪以上という基準が指定された。

 大正デモクラシーの時代には,普通教室に加えて各種の特別教室が,雨天体操場や講堂などとともに,順次学校に必要な施設として位置づけられるようになった。またそれまでほとんどの校舎が木造であったなかで,鉄筋コンクリート造校舎が,不燃・耐震を目的に建てられるようになり,ほぼ今日の学校建築の型式・内容に近い姿が完成されたのである。昭和初年の,相次ぐ台風や地震において,木造校舎の構造は根本的に見直しを迫られるが,1934年,計画面での対応も含めた《学校建築物の営繕並に保全に対する訓令》が,文部省より出され,建築物としての学校建築が特定化されることになったのである。そして,これをもって,定型化から全国的な学校建築の画一化の道がさらに推し進められることになった。

 画一的な施設は,画一的な教育システムから由来するものであろう。50人前後の学級編制を主軸に,50分授業,担任による一斉進度の授業方法が,西向きに黒板に向かい,一斉机配列を基本とする,画一的教室となったのである。そして第2次大戦の結果は,日本の教育制度と内容に大きな変革をもたらしたが,この教育システムの基本は,結果としてあまり変わらなかった。したがって,50年に発表された鉄筋コンクリート造校舎の標準設計の計画内容は,画一的木造校舎のあり方とあまり変わらなかったのである。この標準設計は,7m×9mの普通教室で構成する,片側廊下型の一文字校舎で提案されており,その後30年間,最近にいたるまで全国各地で利用されてきた。

 木造の校舎は,公立小・中・高等学校の場合でみると,すでに保有する校舎の延面積の1割を割るようになり,不燃化の目標は達成されつつある。また,大学,高等学校,幼稚園は,設置基準により,必要室と面積の大枠が定められ,公立の小・中・高等学校は,補助基準が作成され,今日の学校建築のレベルを規定しており,校地の規模では不十分なものの,建物規模は国際的に恥ずかしくないレベルになってきた。

このように,昭和40年代までは量的整備の時代ということができるが,一方,この間にも学校建築の画一化はさらに浸透し,やがては質的な意味においてこの状況が問われるようになるのである。

 その第1は,画一的校舎では十分に解決されているとは言えなかった,教室内の採光・換気・通風の状況を改良すること,また前室や手洗い,ロッカースペースなど,生活上の施設・設備を充実させた教室まわりのスペースをつくること,そして建物や校地をより効率的に利用できる校舎型式を工夫することなどである。そして昭和30年代初頭に,目黒区立宮前小学校に建設された日本で初めての鉄骨造校舎の計画が契機となり,バッテリー型の校舎や,片側廊下型にとらわれない校舎配置の工夫が,各地で散見されるようになった。さらに,中・高等学校では,普通教室をなくして,どの教科も特別教室で授業する教科教室型の運営方式の学校や,低学年と高学年の生活圏域を分けた配置型式の小学校などが提案・建設されるようになった。

 そして第2は,昭和40年代から,先進諸国を中心に広がっている教育の変革と,これに伴う学校建築の動きである。これまでの一斉画一授業を基本とする教育システムでは,急激な変化・発展をしている今日の社会の状況に対応し得ないという認識から,教育の個別化,学習の個性化を目標とする教育システムが求められるようになる。それは,個別進度で学習計画を組み,したがって学習集団も弾力化され,また複数の教師がチームをつくって学習集団に対応するチームティーチング方式など,ひとりひとりの子どもたちの側から組み立てる教育システムである。このような機能の変化・発展には,従来のような校舎ではまったく対応し得ないのは当然であり,定型画一の学校建築は,ようやく変革期を迎えることになったのである。弾力的に編制される大小の集団がさまざまな活動をするためにオープンスペースが,また子どもたちが使うための豊富な教材・機器を学習空間の中央に配するラーニングセンターと,そして大・中・小の広さの多様な教室の用意などが,画一的教室の羅列に代わって,学校建築の主体室になってくる。福光中部小学校(富山県)は,従来の8教室分の大きさのオープンスペースが,天井からつるした動くパネルで,必要に応じた大きさの室に区分けできるようになっている典型例である。

 学習者から組み立てるシステムは,学校をして学習者の生活の場であることを要請する。授業をすることが主目的の機能に代わって,学習は当然のこと,食事し,休み,相談し,遊び,交流するなどの人間的諸機能に,学校建築がはじめて本格的に対応しなくてはならなくなったのである。ロビーや,コモンスペースや,プレールーム等々が学校建築の必要諸室になり,そして今日,豊かでゆとりのある人間的・文化的環境づくりが,学校施設のもつべき最大の課題のひとつとなった。さらに,このような考え方は生涯学習へとつながる。ひとりひとりの子どもたちの学習への欲求にこたえ,その機会を与えることは,地域の学習者全体に対して,同様にあてはまることである。地域からの学習者の生活の場としての学校,そしてその存在が学習を触発するような環境づくりなどが大きな課題となろう。このことは,学校施設がその他の地域施設と複合したり,あるいは人の集まる地区の中に学校施設が分散配置され,文字通りのコミュニティ施設として位置づけられることを意味しており,アメリカやイギリスにはすでにこの種の実例も数多い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「学校建築」の意味・わかりやすい解説

学校建築
がっこうけんちく
school architecture

一般的には小・中・高等学校の学校教育施設および付属施設をいうが,そのほかに幼稚園,大学,各種学校,特殊学校などの建築も含まれる。小・中・高等学校においては,教室を中心として,実験室,図書室,体育館,講堂,クラブ室などが教育施設であり,職員室,事務室,食堂,売店などが付属施設である。建築の規模は,児童・生徒の年齢,生徒数,職員数などによって定まるが,そのほか,学校の地域性,社会性,教育方針,あるいは敷地規模などにも大きく左右され,特に,大学や各種特殊学校においては,後者の比重が大きくなる。建築計画上,特に低学年では,年齢に適した生活空間と教育空間の有機的パターンが要求される。自然の条件を取入れた快適な空間をつくることが必要である。

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