宇治村(読み)うじむら

日本歴史地名大系 「宇治村」の解説

宇治村
うじむら

[現在地名]高梁市宇治町宇治

飯部いいべ村の西に位置し、成羽なりわ川の支流島木しまき川の上流に広がる宇治盆地の東半分を占める。ごう後谷うしろだに石田いしだ若松わかまつ笹尾ささおなどの集落があり、吹屋ふきや往来が南の羽山はやま(現川上郡成羽町)から当地を経て北隣の吹屋村(現同上)へ続く。寛永備中国絵図にみえる宇治村(松山藩領、高三二九石余)・篠尾村(同上、高四〇石)が、ほぼのちの宇治村にあたる。正保郷帳にも二村がみえ(篠尾村は丸山笹尾村と表記)、いずれも高はほぼ同前、松山藩領(以後の領主の変遷は松山西村に同じ)


宇治村
うじむら

[現在地名]岩美町宇治・岩井いわい

高山たかやま村の東に位置する。「和名抄」に載る巨濃この郡宇治郷の遺称地で、中世には山城石清水いわしみず八幡宮領の宇治庄が成立していた。永仁元年(一二九三)一二月二三日の伏見天皇綸旨(石清水文書)に「因幡国宇治庄内、安元・久元両名」とみえ、山城石清水八幡宮領である両名の領有権が八幡検校妙清に安堵されている。室町時代には宇治庄は東隣の蒲生がもう庄と一体のものとしてとらえられ宇治蒲生庄とよばれていた。観応元年(一三五〇)足利尊氏が本郷家泰に保土原高経跡の「因幡国宇治郷三分壱地頭職」を宛行っている(同年一〇月二一日「足利尊氏充行状写」内閣文庫蔵記録御用所本古文書など)。天正八年(一五八〇)山名豊弘が中島四郎左衛門に「因州巨野郡宇治」を与えている(同年一一月二六日「山名豊弘宛行状」因幡民談記)


宇治村
うじむら

[現在地名]益田市宇治町

沖田おきた川の支流後谷あとだに川に流入する宇治川の水源地帯に位置し、北は金山かねやま村、南は下種しもたね村。地名は古名をうち村といったのをのちに宇治村に改めたという。内村は喜久津久きくつく茶臼ちやうす山の内にあるといい、宇治は宇治茶を取寄せ植付けた故事によるという(石見八重葎)。建武二年(一三三五)七月一七日の益田兼世文書紛失証状(益田家文書)によれば「益田庄宇地村地頭尼是阿」が相伝していた文書を、大内長弘の関東代官に預け置いていたところ、元弘三年(一三三三)の鎌倉幕府滅亡の動乱により失ってしまったという。


宇治村
うじむら

[現在地名]津島市宇治町

蛭間ひるま村の西に位置し、北は葉苅はかり村、西は目比むくい川・日光につこう川に接し、南西部は佐屋路に面している。織田信雄分限帳に「一、四百五拾貫文 寺の・宇治・有木 津田勘平」とあるのが文献上の初見。天保の村絵図によれば、集落は村域のほぼ中央に位置し、集落の周辺部に「府志」記載の浄土宗光明こうみよう寺・真宗大谷派福祐ふくゆう寺・志津しづ天王社・三躰さんたい神社・八剣はつけん社があり、東村境に墓地がある。北の村境に「五ケ村悪水落ち」筋が、西から南への村境に古瀬こせ千引せんびき(現海部郡佐織町)悪水落筋が描かれており、「徇行記」は「村西田面ハ卑湿ノ地ニテ深溜リ潦水ノ害アリ」と記す。


宇治村
うじむら

[現在地名]加茂町宇治

東はあか川を境に加茂中村、南は南加茂村。村の中央を赤川が流れる。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高五五三石余、寛文四年(一六六四)の本田高五四九石余、新田高なし。「雲陽大数録」では高四三〇石。寛政一二年(一八〇〇)の人数四〇三(「大原郡宗門改」加茂町誌)。赤川の洪水による被害がたびたびあり、寛政四年の洪水では牛馬用の草が汚泥で腐り、牛馬が死んだ。


宇治村
うじむら

[現在地名]珠洲市三崎町宇治みさきまちうじ

引砂ひきすな村の北、砂丘の浜続きで、古くは引砂村とともに浜田はまだ村と称した可能性があるがつまびらかではない。正保郷帳に村名がみえ、高一八八石余、田一〇町六反余・畑一町九反余、新開高四一石余(免二ツ二歩一厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二七二石、免四ツ、小物成は山役九九匁、鳥役一匁(出来)であった(三箇国高物成帳)須須すず神社の神主大宮裁許分一二石余が置かれた(須須神社誌)。寛文五年当時、四間・一〇間で収納量三千俵の塩蔵があった(御塩方一件)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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