教育者。下総(しもうさ)国古河(こが)藩士族安井津守の長女として東京駒込曙(あけぼの)町(現、文京区)に生まれる。1890年(明治23)東京女子高等師範学校卒業。母校付属小学校で教鞭(きょうべん)をとる。さらに、岩手県尋常師範学校、女子高等師範学校訓導を歴任。一時、樋口一葉の元で、和歌と『源氏物語』を学んだことが知られている。1897年、文部省派遣の官費留学生として渡英、ケンブリッジのトレーニング・カレッジなどで心理学、教育学などの研鑽(けんさん)を積んだ。1900年に帰国後、海老名弾正(えびなだんじょう)より洗礼を受け、(弓町)本郷教会(文京区)に所属。母校にふたたび奉職したが、1904年シャム国バンコク皇后女学校教育主任に選任され、赴任。1907年任期満了後、私費で再度渡英し、倫理学などを学んだ。翌年帰国し、学習院、女子英学塾で教え、海老名弾正が1909年に創刊した教養誌『新女界』主筆となった。1910年、母校に再勤務。1918年(大正7)新渡戸稲造(にとべいなぞう)の仲介があり、在日北米6宣教師団より請われて東京女子大学学監に就任。1923年、マウント・ホリヨーク大学より、名誉博士号を授与される。新渡戸の辞任後、1923~1940年(大正12~昭和15)同学長を務める。草創期の東京女子大学の教務・学生生活に全面的な責任を負い、その方向性の決定に強力な主導権を発揮した。最晩年の1943年より、戦中の困難にあった東洋英和高等女学校(現、東洋英和女学院)校長事務取扱となる。官学出身でありながら、キリスト教私立女子高等教育に尽した。
[小檜山ルイ]
『青山なを著『安井てつ伝』復刻(1990・大空社)』
女子高等教育の発展につくした教育者。東京出身。1890年女子高等師範学校を卒業し直ちに母校助教諭・付属小学校訓導となる。92年岩手県尋常師範学校へ移ったが,94年母校に復帰。97年家政学・教育学研究のためイギリスに留学,1900年帰国し母校の教授兼学監となる。同年海老名弾正から受洗。その後,シャム皇后女学校教育主任をへてイギリスを再訪したりした。18年東京女子大学創立とともに学監となり,23年から40年まで第2代学長をつとめた。その進歩的な教育観は学長就任に際して語った,キリスト教主義的人格教育の重視,体育の重視,リベラル・カレッジとしての学園づくり,学究生活と社交的生活の調和などの抱負に,よく示されている。
執筆者:千野 陽一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
明治〜昭和期の教育家 東京女子大学名誉教授。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…1910年イギリスで開催された世界宣教師大会での女子高等教育機関設置の提議にこたえ,すでに日本で高等女学校を経営していたアメリカ,カナダのプロテスタント6教派代表と日本側有志との協力のもとに,18年東京角筈(つのはず)に開設された。初代学長に新渡戸稲造,学監に安井てつ(のち2代学長)を迎え,英文科,人文科,国文科,実務科あわせて76人の学生によってスタートしたが,キリスト教主義にたった個性の重視,人格の尊重,犠牲sacrificeと奉仕serviceの強調などの建学精神は,その後の伝統的学風となった。24年現在地に移転。…
※「安井てつ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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