安喜浜村
あきはまむら
[現在地名]安芸市本町一―五丁目・港町一―二丁目・矢ノ丸一―四丁目・花園町・久世町・幸町・庄之芝町・宝永町・染井町・日ノ出町・寿町・清和町・千歳町・津久茂町・桜ヶ丘町・西浜・東浜
安芸平野の南、土佐湾に面し、東は安芸平野を南流してきた安芸川が海に注ぐ。西は穴内村。町場の中心を東西に土佐街道(東街道)が通り、当村を起点として安芸川沿いに井ノ口村を経て畑山村へ行く道と、伊尾木川沿いに入河内村を経て別役村から阿波国に至る道がある。安芸川河口付近は海上輸送の拠点ともされ、高知城下以東の政治・経済の中心地である。村名は近世は安喜浜と記される場合が多いが、明治七年(一八七四)に安芸浜に統一された。
村域北部から土居村にかけて条里制の遺構が残り、土居村付近を中心とした古代の玉造郷の湊とされた地と思われる。中世は安芸庄に含まれ、土居村には安芸氏が居城を構えてその南に城下町を発展させた。安芸氏滅亡後、長宗我部氏は天正一七年(一五八九)に検地を行い、安芸庄一帯は安喜庄地検帳三冊が作成された。近世の安喜浜村域はそのうちに東浜村・中浜村・西浜村に分けて記載される。東浜村には二一筆の屋敷と八八筆の浜屋敷があり、船頭四人、水主五四人、上乗四人、鍛冶三人が記され、中浜村は二八人の水主、上乗二人、刀禰・小使が、西浜村には水主五二人、中乗一人、船番匠一人、鍛冶二人、刀禰一人などが記される。なお同帳には別に東浜分塩浜一三三も記される。
西浜村居住という須藤善兵衛は山内氏入国の折に道筋案内を務め、その功などによって安喜三浜の総庄屋となり(「南路志」所収文書)、のち有力商人大升屋となった。慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)には、安喜東浜刀禰として遠見甚十郎・須賀与左衛門の二人、中浜は中内杢左衛門、西浜は浜川新兵衛の名が記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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