安富村(読み)やすどみむら

日本歴史地名大系 「安富村」の解説

安富村
やすどみむら

[現在地名]益田市安富町

高津川中流域右岸低地と丘陵一帯に位置し、東は梅月うめつき村、西対岸は虫追むそう村、北は角井つのい村。地名は往古天下大神が大鹿を射止めた故事から安止といったが、大化元年(六四五)安富と改名したという(石見八重葎)。江戸時代の支配の変遷は高津村と同じ。元和三年(一六一七)の竹村丹後守引渡証文(亀井家記稿本)村名がみえ、高五九三石余。古高六〇四石余、寛永一四年(一六三七)の検地高七二三石余(万手鑑)


安富村
やすどみむら

[現在地名]吉井町福益ふくます

屋形やかた村の東に位置する。村域は耳納みのう山地から北麓扇状地に広がり、南北に細長い。安留村とも記す(上三郡取調手鑑など)。本高は一二四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高二〇〇石・役高二六二石。寛政元年(一七八九)の撫斗代六斗(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高二六九石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一八町八反余・畑田二畝余・畑一町三反余・居屋敷二反余、ほかに開畑方三反余。


安富村
やすとみむら

[現在地名]浜松市新貝町しんがいちよう

鶴見つるみ輪中の東縁に位置し、集落庄屋しようや村の東にある。安留村とも記された。文化一二年(一八一五)の天竜川御普請絵図(浜松市博物館蔵)は、鶴見輪中北側の堤外に畑を描き、「安留鶴見半場入会附洲起返」と注記する。中世かば御厨に属した。明徳二年(一三九一)頃の蒲御厨年貢公事銭注文写(東大寺文書)に安富村とみえ、定麦七斗余・定豆八斗余、定役四七七文。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android