室町後期の画家。俗姓は小栗(おぐり)。宗湛は出家してのちの法名で、自牧と号した。大徳寺の養叟宗頤(ようそうそうい)に参禅、さらに相国寺(しょうこくじ)の益之集箴(えきししゅうしん)のもとへも参じた。1462年(寛正3)相国寺松泉(しょうせん)軒に『瀟湘(しょうしょう)八景図』襖(ふすま)絵をかき、将軍足利義政(あしかがよしまさ)の称賛を受け、以後、高倉御所、雲沢軒、石山寺(いしやまでら)などの襖絵を制作。翌63年には幕府の御用画師(えし)となり、将軍の命があったときはいずこにも描くこと、その俸禄(ほうろく)は周文と同額の月俸と定められた。宗湛は周文の後継者としてよくその任を全うしたが、遺作に乏しく、未完成のまま亡くなったため子の宗継(そうけい)が描き継いだとされる大徳寺養徳院旧蔵の襖絵『芦雁(ろがん)図』(京都国立博物館)をその代表作にあげるにすぎない。
[榊原 悟]
『松下隆章著『日本美術絵画全集2 如拙/周文』(1981・集英社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…小栗は俗姓であり,出自は不明。大徳寺の養叟宗頤(ようそうそうき)に参禅し出家し,師より礀翁(かんおう)宗湛の道号と法諱(ほうき)を授けられた。また蔭涼軒主(いんりようけんしゆ)の季瓊真蘂(きけいしんずい)からは,牧牛(修禅の意)と名画僧牧谿の〈牧〉字にちなんで,庵号として〈自牧〉を与えられた。…
…また貿易の関係で従来から神屋家は出雲の鷺銅山の銅を求めていたが,3代目寿貞によって鉛を媒剤とする銀の製錬技術を輸入し,1533年他の博多の吹工の協力を得て石見銀山の経営に成功した(《銀山旧記》)。宗湛の父は神屋家5代目紹策で,戦乱のため一時唐津に移っていたが,朝鮮貿易や上方への商売などによって巨富を得た。86年(天正14)ごろより博多の宗湛は京都や堺の豪商間にも著名となり,千利休とも茶会などで交際があった。…
※「宗湛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新