室町中期の画家。小栗は俗姓であり,出自は不明。大徳寺の養叟宗頤(ようそうそうき)に参禅し出家し,師より礀翁(かんおう)宗湛の道号と法諱(ほうき)を授けられた。また蔭涼軒主(いんりようけんしゆ)の季瓊真蘂(きけいしんずい)からは,牧牛(修禅の意)と名画僧牧谿の〈牧〉字にちなんで,庵号として〈自牧〉を与えられた。画の上での師は不明であるが,大徳寺にいたころ文清(ぶんせい)との関係が推察される。長禄期(1457-60)ころ,竹香全悟ほか4僧賛の山水図を描き,画名が高かった。《蔭涼軒日録》によれば,1462年(寛正3)に小栗氏として登場し(半俗半僧であったらしい),相国寺内に新造した集箴の私寮松泉軒の障子に瀟湘(しようしよう)八景図を描き,相国寺に御成した将軍足利義政はこれを見て賞美したとある。これが機縁となり,63年には周文のあとを継いで将軍家御用絵師となり,周文と同額の俸禄を給された。その後,高倉御所,雲沢軒,石山寺の障子絵に筆をふるった。73年(文明5)ころまで作画の記録をのこす。宗湛の確実な作品は今日なお明らかになっていない。ただわずかにその子宗継(そうけい)(道号は月船,喜多(北)坊と称される。生没年不詳)とともに描いた大徳寺養徳院の障子絵《芦雁図》(京都国立博物館)に,彼の作と推定されるものがあるにすぎない。周文の後継者でありながら,牧谿に私淑し独自の画風を興して,京都画壇の中心人物として活躍したと想像される。
執筆者:林 進
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