小栗宗湛(読み)オグリソウタン

デジタル大辞泉 「小栗宗湛」の意味・読み・例文・類語

おぐり‐そうたん〔をぐり‐〕【小栗宗湛】

[1413~1481]室町中期の画家俗姓小栗、出家して法名宗湛という。相国寺に入って、画僧周文に学ぶ。足利あしかが将軍家に仕え、幕府御用絵師となる。漢画正統を受け継ぐ穏健な作風

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改訂新版 世界大百科事典 「小栗宗湛」の意味・わかりやすい解説

小栗宗湛 (おぐりそうたん)
生没年:1413-81(応永20-文明13)

室町中期の画家。小栗は俗姓であり,出自は不明。大徳寺の養叟宗頤(ようそうそうき)に参禅し出家し,師より礀翁(かんおう)宗湛の道号と法諱(ほうき)を授けられた。また蔭涼軒主(いんりようけんしゆ)の季瓊真蘂(きけいしんずい)からは,牧牛(修禅の意)と名画僧牧谿の〈牧〉字にちなんで,庵号として〈自牧〉を与えられた。画の上での師は不明であるが,大徳寺にいたころ文清(ぶんせい)との関係が推察される。長禄期(1457-60)ころ,竹香全悟ほか4僧賛の山水図を描き,画名が高かった。《蔭涼軒日録》によれば,1462年(寛正3)に小栗氏として登場し(半俗半僧であったらしい),相国寺内に新造した集箴の私寮松泉軒の障子瀟湘(しようしよう)八景図を描き,相国寺に御成した将軍足利義政はこれを見て賞美したとある。これが機縁となり,63年には周文のあとを継いで将軍家御用絵師となり,周文と同額の俸禄を給された。その後,高倉御所,雲沢軒,石山寺障子絵に筆をふるった。73年(文明5)ころまで作画の記録をのこす。宗湛の確実な作品は今日なお明らかになっていない。ただわずかにその子宗継(そうけい)(道号は月船,喜多(北)坊と称される。生没年不詳)とともに描いた大徳寺養徳院の障子絵《芦雁図》(京都国立博物館)に,彼の作と推定されるものがあるにすぎない。周文の後継者でありながら,牧谿に私淑し独自の画風を興して,京都画壇の中心人物として活躍したと想像される。
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百科事典マイペディア 「小栗宗湛」の意味・わかりやすい解説

小栗宗湛【おぐりそうたん】

室町中期の画家。俗姓は小栗,宗湛は出家後の諱(いみな)。周文に学び,1463年幕府の御用絵師となる。石山寺,高倉殿,松泉軒等各地の寺院,殿舎に襖(ふすま)絵を描いたが,確実な遺作はない。謹厳な作風であったことが,その子宗継が描いた旧養徳院襖絵から推定できる。狩野正信の師といわれ,伝承作品には花鳥図も多い。
→関連項目周文東山山荘

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小栗宗湛」の解説

小栗宗湛 おぐり-そうたん

1413-1481 室町時代の画僧。
応永20年生まれ。京都相国(しょうこく)寺の画僧周文に師事。師の跡をついで足利義政につかえ幕府御用絵師として活躍。大徳寺養徳院の「蘆雁(ろがん)図」は宗湛がかきのこし,子の宗継がひきつぎ完成させた。文明13年3月9日死去。69歳。名は小三郎,助重。号は自牧(じぼく)。作品はほかに「瀟湘八景図」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小栗宗湛」の意味・わかりやすい解説

小栗宗湛
おぐりそうたん

宗湛

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小栗宗湛」の意味・わかりやすい解説

小栗宗湛
おぐりそうたん

宗湛」のページをご覧ください。

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