定林寺村(読み)じようりんじむら

日本歴史地名大系 「定林寺村」の解説

定林寺村
じようりんじむら

[現在地名]土岐市泉町定林寺いずみちようじようりんじ

土岐川北岸に位置し、土岐川支流定林寺川が村の中央を南に流れる。東は河合かわい村、西は大富おおとみ村。村名は土岐頼貞が創建した名刹定林寺に由来する。下河合しもかわい村とも称したといわれる。慶長郷帳では高三三五石余、元和二年(一六一六)の村高領知改帳では松平乗寿(岩村藩)領。正保郷帳では田高二二〇石余・畑高一一五石余。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば高三三五石余、うち無高地五石余、田一五町八反余・畑九町七反余、新田高六石余・反別六町余。家数九三・人数三九五、馬九、郷蔵一。諸職は油絞一。用水大富村との境の川を利用。


定林寺村
じようりんじむら

[現在地名]南国市岡豊おこう町定林寺

香長かちよう平野の北部、北に長岡台地を負い、南には丘陵蒲原かもはら山があり、村の中央部に平地がある。「土佐州郡志」は「東限小野界、西限瀑本、南限蒲原山、北限白木谷山、横八町許縦二町許、(中略)其土赤黒」と記す。村名は村内にあった定林寺の名にちなむ。天正一六年(一五八八)の江村郷地検帳に村名がみえ、検地面積二〇町余、うち屋敷三町七反余・畠四五代余で、定林寺領のほか長宗我部氏家臣の給地である。同帳分で定林寺は一〇町一六代の給地と一町三反の扣地を所有していることが知られる。なお定林寺は長宗我部氏の没落とともに退転したようである。

元禄地払帳によると総地高は二二五石余、うち本田高二〇六石余・新田高一八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android