室津村(読み)むろつむら

日本歴史地名大系 「室津村」の解説

室津村
むろつむら

[現在地名]上関町大字室津

熊毛半島の南端にあり、北は尾国おくに(現平生町)北東側は伊保庄いほのしよう(現柳井市)と接し、西海上になが島を望む。皇座おうざ山の西側に広がる村で海岸線まで山麓が及び、海岸に沿って集落が点在する。近世は上関宰判に属し、弁天べんてん島・烏帽子岩えぼしいわ銅掛岩どうかけいわの三島が村に属していた(注進案)

山田吉兵衛家文書(「閥閲録」所収)の弘治二年(一五五六)とされる文書に「今度於室津、警固衆各高名之由喜悦之至候」とあり、室津の名がみえる。村名は慶長一五年(一六一〇)検地帳に「室津」、元禄一二年(一六九九)の郷帳に「室津村」、「注進案」では室津村・室津浦と現れる。村名は同書に「室津といへるは両岸対するの津によつて諸呂津もろつといへり、又康安元辛丑七月廿日海中に鼓浮出たるより鼓か浦と云々、后又古名諸呂津のモヲムト訓シモトムハ同音なるゆへ自然とムロツトいへり」という。


室津村
むろつむら

[現在地名]室戸市室津

室津川流域を村域とする広域の村で、中心集落は下流右岸。もっとも下流左岸に領家りようけ村、河口右岸に浮津うきつ村、左岸に津寺つでら村があり、室津川流域全体が村域というわけではない。なお津寺村は津照しんしよう寺領を中心とする名目的な村で、行政上は室津村に含まれていた。

往古は室津川を河口より少しさかのぼった原池はらいけ辺りまで入江状をなし、周囲を山に囲まれた港の意味で室津という地名が生じたとされる。「和名抄」にすでに室津郷がみえるが、当時は室津川下流の集落を中心に行当ぎようど岬より室戸岬までの地を覆うもので、室戸岬も室津の岬の意であるとされる。緩やかに曲流する室津川沿いの平地は古くから開発されており、上里かみざとにある室津神社は「延喜式」にみえる古社で、「続日本紀」神護景雲元年(七六七)六月二二日条に外従五位上叙位の記事のある安芸郡少領凡直伊賀麻呂が、祖神天津彦根命を祀った社といわれる。


室津村
むろづむら

[現在地名]北淡町室津

田野尻たのしり村の北にあり、北東は育波いくは村。東部は東山寺とうさんじ山系に続く丘陵地で、このうちに屹立する羅漢らかん山の急斜面には八丈はちじよう岩、狸がすむという次郎太夫岩など大小の奇岩がある。東山寺山系を水源とする室津川が北西流し、海に入る。貞応二年(一二二三)の淡路国大田文に津名郡国領として「室津保」がみえ、田二一町七反二〇〇歩(除田三町、残田一八町七反二〇〇歩で三斗代五町二〇〇歩)・畠五町三〇歩(除畠一町九〇歩・残畠四町四〇歩)地頭は当初国御家人左馬允忠通であったが承久の乱で幕府に没収され、新地頭として讃岐右衛門六郎の名が記されている。この讃岐右衛門六郎は、承久の乱の際宇治橋合戦に参加した佐貫右衛門六郎のことであろう(「吾妻鏡」承久三年六月一九日条)


室津村
むろづむら

[現在地名]山添村大字室津

松尾まつお村西方の谷間傾斜面に立地する。「もろず」とも発音する。慶長郷帳の村高二二三・七一石、御番衆領。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となる。寛永郷帳では小物成として麻年貢がみえる。麻は奈良晒の原料。同藩の二割半無地高増政策で村高は二八三・八六九石となる。延宝七年(一六七九)幕府領になったが、元禄一五年(一七〇二)川越藩(柳沢吉保)領、宝永元年(一七〇四)幕府領となり、享和元年(一八〇一)再び郡山藩(柳沢保光)領に編入された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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