日本歴史地名大系 「宮浦城跡」の解説 宮浦城跡みやうらじようあと 新潟県:佐渡郡畑野町宮浦村宮浦城跡[現在地名]畑野町宮川慶宮(けいくう)寺の奥院八祖(はつそ)堂のすぐ裏、字城(じよう)にある。宮浦と後山(うしろやま)の境の辺りに位置する。内外二重の堀、高い土塁、三ノ丸を備えた戦国期の城跡で、島内の城としては最も規模の大きなものとされる。城跡前面に慶宮寺と寺家の敷地が続き、さらに宮浦の耕地・屋敷地となる。慶長五年(一六〇〇)の宮浦村検地帳(宮浦区有)には、町のつく地字や鍛冶の存在を示す「かしやしき」の地名がみられる。昭和三九年(一九六四)の発掘調査で鉛の銃弾四個が出土。 宮浦城跡みやのうらじようあと 佐賀県:三養基郡基山町宮浦村宮浦城跡[現在地名]基山町大字宮浦字白木谷基山(きざん)と契(ちぎり)山との中間、通称城(じよう)山(三八七メートル)にある中世の山城跡。同じく中世の木山(きやま)城(古代の基肄(きい)城)に通ずる抜け道・交通堀・礎石・石垣が残り、南東山腹に居館跡が認められる。「萩藩閥閲録」に「城山御陣、宮浦御陣」とみえ、毛利元春軍忠状案にも「宮浦御陣」とみえて、一四世紀に足利方(武家方)の居城となっていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by