宮浦(読み)みやのうら

日本歴史地名大系 「宮浦」の解説

宮浦
みやのうら

[現在地名]西区宮浦

宮浦村内に設定された浦分。北方の唐泊からとまり浦との間は東流して博多湾に入る小河川で隔てられていた。慶長一〇年(一六〇五)八月二五日の黒田長政掟書(新訂黒田家譜)に宮浦はみえず、唐泊が宛先とされていることが示すように、当初は唐泊の弁指(浦庄屋)が統轄していた。その後唐泊から分れて徐々に独立性を強め(続風土記)、自前の浦庄屋を置いた。宝暦一二年(一七六二)の庄屋減員によりいったん浦分は唐泊の一円支配に戻るが、明和三年(一七六六)に再び宮浦に庄屋が置かれている(「御役頭廻船日録」津上家文書)。文化九年(一八一二)郡方覚に載る「浦大庄屋并庄屋名元」によると、大庄屋格文右衛門の給銭は二〇〇目。

宮浦は藩米の大坂への輸送や、他国米・材木の輸送など廻船業を主たる生業とし、福岡藩領内でもっとも大型の廻船があった(続風土記拾遺)


宮浦
みやうら

[現在地名]家島町宮

家島諸島のうち家島本島東部・男鹿たんが島などからなる。集落は家島本島湾奥部東部平地と男鹿島に散在する。郷帳類では家島に含まれる。寛永一六年(一六三九)姫路藩は当浦に番所を置き、番人二人(七人扶持)・定番八人(うち一人物書、五石二人扶持)・水主二人・中間二人・遠見中間二人(二石一人半扶持)を配置した。幕府からの浦手番方勤方条目および家島大概に基づき幕府・諸大名の御用を勤め、また島内の取締、海上警備の任に当たった(酒井家史料)松島まつしまは姫路藩の馬が放牧された所で、文久三年(一八六三)当時は二二疋を数えた(家島町史)


宮浦
みやのうら

古代海部郡にあった津。「豊後国風土記」速見郡の項に「昔者、纏向日代宮御宇天皇、球磨贈於を誅せんと欲して、筑紫に幸す。周防国佐婆津より発船して渡り、海部郡宮浦に泊てたまいき。時に此の村に女人ありて名を速津媛といい其の処の長なり。即ち天皇の行幸を聞き、親しく自ら迎え奉る」とある。この比定地について「箋釈豊後風土記」は宮浦を海部郡としたこの記事は誤りであるとして「宮浦、今海部郡南浜にあり。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宮浦」の意味・わかりやすい解説

宮浦
みやうら

愛媛県北部,芸予諸島大三島の中心集落の一つ。旧村名。今治市に属する。 1955年鏡村と合体して大三島町となり,2005年今治市に編入される。大山祇神社門前町として発達。街並みは安永6 (1777) 年旧河床に地割したもので,当初は戸数 36戸,幕末には 49戸であった。クスノキの樹叢,武具の多い国宝館,海事博物館,紫陽殿のほか,春秋の祭礼,マツタケ狩り,ミカン狩りなど観光資源に富む。宮浦港があり,竹原市 (広島県) と今治市波方を結ぶフェリー寄港

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世界大百科事典(旧版)内の宮浦の言及

【大三島[町]】より

…愛媛県北部,越智(おち)郡の町。1955年鏡・宮浦両村が合体,町制,改称。人口4746(1995)。…

※「宮浦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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