宮浦村(読み)みやのうらむら

日本歴史地名大系 「宮浦村」の解説

宮浦村
みやのうらむら

[現在地名]日南市宮浦みやうら

風田かぜだ村の北にあり、北は富土ふと村。東は日向灘に面し、西は鵜戸うど山地の山々が連なる。宮之浦とも書いた(正徳四年頃飫肥藩人給帳など)。本村の南、鵜戸山の南西に隣接する浦に枝村吹井ふけい(大吹井とも、現吹毛井)があり、その南には小吹井こぶけい(現小吹毛井)小浦おうら(現大浦)の浦が続いた。吹井の北東、日向灘に突き出た鵜戸崎には鵜戸宮(現鵜戸神宮)が鎮座し、古くから人々の信仰を集めていた。県郷村社以下寺院(県立図書館蔵)に載る伝承によれば鵜戸宮の裏に位置することから古くは宮裏と書いたという。村内は平地が少なく水利も悪くしばしば干害にあった。海運の便はよかったが陸運は鵜戸宮への参詣路である鵜戸街道が通っていたものの峠道が多く、便は悪かった。また農閑期には漁業に従事する者が多かった(日向地誌)。なお吹井・小吹井は鵜戸宮領であった(「伊能忠敬測量日記」など)。地内に中世の烏帽子嶺えぼしみね砦跡がある。

応永三一年(一四二四)伊東氏の守る加江田かえだ(現宮崎市)攻撃のため油津あぶらつに集結した島津久豊軍は、吉日を選び油津を出航し、鵜戸崎を通ったのでまず鵜戸宮寺に参詣した後、「宮之浦」に入港している(「島津義天譜」旧記雑録)。天文九年(一五四〇)伊東氏家臣長倉兄弟の反乱が終結すると、翌一〇年一〇月伊東義祐は祖父祐国の仇を討つため飫肥おび出陣を決め、瀬平せびらに先陣を取り、城塞の普請をして番代を定めた。


宮浦村
みやのうらむら

[現在地名]大三島町宮浦みやうら

現大三島町のほぼ中央部に位置する。東は山を背負い、南はうてな村、北は明日あけび村に接する。西は宮浦湾に臨み、良湾をもつ。明治五、六年(一八七二、三)頃の「地理図誌稿」には「港湾有テ大小ノ船数十艘ヲ泊ス可シ」とみえ、また、大山祇おおやまずみ神社の鳥居前町として発達した中心集落の新地しんち町については「一ノ宮ノ鎮座有ルニ因テ、市店軒ヲ並ヘテ商法ヲ事トスル者、亦少カラズ、大三島中繁栄ノ地ナリ」と記されている。宮浦は、古来、大山祇神社の鎮座するところで、中世末までは宮浦全域が社地であった。しかし、慶長五年(一六〇〇)藤堂高虎の今治二〇万石入封に際し、大山祇神社の社地は、現在の約一万坪に削減されてしまった(三島大祝家譜資料)

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)越智郡の項に「宮ノ浦村 林少有」とみえ、村高は三二四石四斗五升である。ほかに、台分として一五一石一斗(田方)が記されている。


宮浦村
みやのうらむら

[現在地名]基山町大字宮浦みやうら

園部そのべ村に北隣し、九千部くせんぶ山余脈の二山脚とそれに挟まれる実松さねまつ川が流れる宮浦谷に立地し、南東は長崎街道まで広がる。

応安七年(一三七四)の毛利元春軍忠状案(毛利家文書)に「自八月至応安六年二月中、承一方、日夜致警固、随分抽忠節畢、同三月凶徒等令渡筑後河之間、御発向之時、御共仕、於宮浦、由比、雲上等御陣、是又致忠節畢」とある。


宮浦村
みやのうらむら

[現在地名]西区宮浦

小田こた村の北、糸島いとしま半島先端部東岸に位置し、西は西浦にしのうら村に接し、東は博多湾を挟んで志賀しか(現東区)能古のこ島に対する。志摩しま郡に属する。村域北部のほとんどをなだ(二〇九・五メートル)の東側斜面が占める。中世から近世初頭には北崎きたざき北崎村の内で、天正一九年(一五九一)三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)、小早川時代の指出前之帳などでは北崎村の内に含まれる。慶長石高帳に宮浦村とみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高は七九八石余。


宮浦村
みやのうらむら

[現在地名]岡山市宮浦

阿津あつ村の西、北は児島湾に面し、沖合約八〇〇メートルにたか(竹島ともいう)がある。元和三年(一六一七)児島郡物成帳では新田分物成として七石一斗・定米八石一斗余とあり、寛永備前国絵図では高三四二石余。「備陽記」によれば田畠三二町三反余、家数一六五・人数九六三。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高三四二石余、直高六〇一石余で蔵入、田八町五反余・畑二一町九反余、池六、樋三九、井戸八三、石橋二、家数二八二・人数一千三八四、寺三・社家一、牛二八、紺屋三軒(藍瓶三本)・鍛冶屋三軒・酒屋二軒、大工七・桶屋五・医者二。


宮浦村
みやうらむら

[現在地名]西彼町宮浦郷みやうらごう

下岳しもだけ村の北にあり、北部は内海(大村湾)に臨む。江戸時代は大村領の内海うちめに属する。「大村郷村記」に大串おおくし村のうち宮浦村とみえ、東西一〇町・南北三三町余で広さ三九六町余、田六町一反余・畠一三町八反余(切畠六町八反余)・山林野三七六町余、惣高五七石余のうち田四四石余・畠一二石余で、内訳は蔵入地一九石余・浮地四石余・私領三三石余、惣物成納高は米四〇俵余・小麦一八俵余、竈数八五(安政三年改)のうち小給三・奉公間人一・庄屋一・蔵間人一・蔵百姓一・蔵間百姓九・私領五〇・浦百姓一・浦間百姓一八、男女四六七で、宗旨はすべて法華宗、山運上・林運上・薪山手銀など一三九匁余のほか、麹場株・鍛冶・綿屋株・揚酒株・問屋株・塩問屋株各一、染屋株三、網二張などの運上を上納。


宮浦村
みやうらむら

[現在地名]畑野町宮川みやかわ

南は後山うしろやま村、北・西は三宮さんぐう村・きた村・馬場ばんば村、東は小倉おぐら川を挟んで畑方はたがた村・畑本郷はたほんごう村。主として低位台地上にあるが、道路沿いの街村部では後山村との境界線が交雑して不明瞭。宮浦保の遺称地。現在の宮川集落の北側の水田地帯からは、昭和五五年(一九八〇)の発掘調査でおびただしい須恵器などが出土した。言伝えでは地頭本間直泰の時代に、台地上に小倉川の水を引いて水田化が行われ、住家の多くは南側台地上に移り、後山村が成立したという。慶長五年(一六〇〇)検地帳(宮浦区有)では、本符二千二八六束六把苅・見出一七四束苅、稗畠が慶宮けいくう寺にある。名請人七一人。


宮浦村
みやのうらむら

[現在地名]田浦町小田浦こだのうら

田浦村小田浦村の間にあり、北西は田浦湾に面し、南は伏木氏ふしき(現芦北町)に接する。南から北へ宮浦川が流れる。村名は海岸に面して景行天皇を祀る天子てんし宮があったためという。天子宮の松は名木として知られ、「国誌」に「社頭ノ老松一株道ヲ跨テ蒼蓋渚ニ偃シ、満潮ニハ沖ノ藻屑松ノ梢ニカヽル、故ニ里俗藻掛ノ松ト称ス」とある。現在は干拓によって天子宮は内陸部になり、藻掛ノ松も枯れてなくなった。


宮浦村
みやのうらむら

[現在地名]芦北町宮浦

宇戸うと村から東方吉尾よしお村方面へ通じる道筋に沿い、佐敷諏訪さしきすわ神社より東に細長く続く。道筋に沿って佐敷川支流の宮の浦みやのうら川が流れ、集落は上下に分れる。村名は宮浦阿蘇神社によると思われる。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に村名がある。佐敷手永に属し、「国誌」に小村として塩屋しおやが記される。文化一〇年(一八一三)の佐敷手永村々高附帳(熊大図書館蔵)に高二四一石五斗余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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