日本歴史地名大系 「家野村」の解説 家野村いえのむら 大分県:臼杵市家野村[現在地名]臼杵市家野臼杵川中流域の左岸台地上に位置し、南は同川を挟んで深田(ふかた)村。臼杵・岡(おか)城路が通る。慶長六年(一六〇一)稲葉貞通は家野村の内で一五〇石を伊勢神宮に寄進している(伊勢領目録之覚「稲葉家譜」臼杵藩政史料)。同一一年の惣御高頭御帳では家野村組に属し、高五〇〇石余、村役人に清右衛門・勘九郎・甚左衛門を記す。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳では高五六〇石余、日損所、「柴山少有」とある。正保郷帳では臼杵庄に属し、田方一七八石余・畑方三八二石余。江戸時代中期と推定される臼杵領石高帳では田方一九町余・畑方四三町余、免六ツ三歩、伊勢神宮領の免は四ツ七歩であった。 家野村よのむら 長崎県:長崎市家野村[現在地名]長崎市家野町(いえのまち)・文教町(ぶんきようまち)・若葉町(わかばまち)・大橋町(おおはしまち)・千歳町(ちとせまち)・花丘町(はなおかまち)・昭和(しようわ)一―三丁目・大手(おおて)一―三丁目本原(もとばる)村の北にあり、南東部を浦上(うらかみ)川が流れる。応永二六年(一四一九)四月二日の重通等連署状写(福田文書)にみえる「家野分江次郎一疋」は当地に関連するとされる。地内に十面(じゆうめん)城が築かれていたといわれ、城の越(じようのこし)にキリシタン墓地がある。江戸時代は幕府領長崎代官支配で、大村藩領の浦上家野村とはもと一村であったとされる。元和三年(一六一七)のイエズス会管区長コウロス徴収のキリシタン連判書付では「浦上」の家野与衛門ミける・五兵衛へと路などキリシタンの指導者と考えられる四名が署名。 家野村いえのむら 三重県:名張市家野村[現在地名]名張市家野・さつき台(だい)二番町薦生(こもお)村の西にあたる山麓台地にあり、名張川の北に位置する。治承二年(一一七八)と推定される東大寺三綱等陳状土代(東大寺文書)に、東大寺領薦生村出作の「在栖」とみえる。おそらく在栖の地が家野であろう。在栖が家野と称するようになった時期は不明。江戸時代は元禄六年(一六九三)内検を改め本高二〇六・一六石、平高二九〇・四石。寛延(一七四八―五一)頃の戸数四一、人口二〇〇、馬一、牛六。社寺として稲荷とその末社三座、龍徳(りゆうとく)寺があった(宗国史)。 家野村いえのむら 三重県:飯南郡飯高町家野村[現在地名]飯高町森(もり)犬飼(いぬかい)村の南、櫛田(くしだ)川の右岸、蓮(はちす)川の左岸にあり、当地の北東部で蓮川が櫛田川へ合流する。中世後期には北畠氏の勢力下にあったと思われ、「五鈴遺響」には「北畠家臣家野権右衛門尉住ス」と記されている。寛永一八年(一六四一)検地帳(徳川林政史蔵)に「家野村」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by