日本歴史地名大系 「富家殿」の解説
富家殿
ふけどの
- 京都府:宇治市
- 富家殿
宇治川右岸の
藤原一門で、冨家殿と称された人物のうち、藤原忠文と藤原忠実の二人が著名で、それぞれ宇治に別業を営んだ。天慶の乱の際の征東大将軍としても知られる忠文の場合、「本朝麗藻」が収める藤原伊周の宇治逍遥の一句によって、別業は宇治川西岸にあるとみ、家領冨家殿の所在を左岸に比定する考えもある。しかし、その「将軍宅」は、当時すでに「一旧墟」と化している。それは忠実の別業冨家とは直接結びつきにくく、まして同一の場所という確証はない。後述する「冨家殿号五ケ庄」「五ケ庄冨家村」という表現、その年貢や公事物の内容からも、近衛家が家領として継承した冨家殿は、現在の五ヶ庄域であり、それは、藤原忠実の別業およびその周辺所領である。
建長五年(一二五三)一〇月二一日付の近衛家所領目録(近衛家文書)によれば、冨家殿は、近衛兼経やその夫人たちの私的な相伝所領として「家中課役一向不勤仕」の一四所の一つにあげられており、それは京極殿(藤原師実)領として代々が継承してきたものであった。
また、のちに五ヶ庄に含まれる岡屋庄は、冷泉宮(子内親王)領にその伝領系譜をもち、所領目録では、「庄務無本所進退所々」つまり本家の近衛家以外に領家があって、近衛家は一定の得分を収取する立場にあった所領群五〇所のうちにあり、当時の領家は「浄土寺前大僧正円基」であった。岡屋は岡屋津の機能が活発化するに伴ってしだいに開発され、やがて藤原師輔の領有するところとなった。天徳四年(九六〇)に師輔の没後、遺言によって比叡山
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報