日本歴史地名大系 「富山船橋」の解説 富山船橋とやまふなはし 富山県:富山市富山城下御用屋敷富山船橋神通川下流に架けられた北陸街道(巡見使道)上の船橋。寛文元年(一六六一)以降、富山城下のうち右岸の七間(しちけん)町と左岸の船頭(せんどう)町間に定まった。当初は船渡しで、天正八年(一五八〇)一一月に佐々成政は先規のとおり百姓・武家・商人・権門から船渡賃をとることなどを定めた(吉川随筆)。同一三年八月一三日、成政は船渡船頭に山室(やまむろ)郷中市(なかいち)村の三一〇俵、同郷江口(えぐち)村二二六俵余を宛行っている(同書)。その後当地を管轄した前田安勝(利家の兄)が、同一六年一二月に富山船渡しの定書を出し、その管理は代官が行い、渡賃は商人から一銭ずつとり、家中奉公人からはとらないこととしている(「船橋原由之事」前田家文書)。慶長二年(一五九七)前田利長の家臣前田対馬守長種は富山渡守の扶持について定め、婦負(ねい)・中(なか)(射水)両郡の百姓に対し、一千俵につき米二斗ずつ出すことを命じた(船橋原由之事)。同一一年三月五日の前田利長申付状(船橋原由之事)に「船橋小島町船頭共」とあり、小島民部に船頭の居屋敷を地子免除とすることが申付けられている。この時には船渡しから船橋になっていたとみられ、右岸の小島(こじま)町と船橋町を結んでいたとされる。なお船橋町は古手伝(ふるてつたい)町のこととも伝える。元和三年(一六一七)には富山船橋水主(船頭)を三二人、扶持米は一六〇俵とし、扶持米は越中国中の村から取立てた(船橋原由之事)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by