富岡城跡(読み)とみおかじようあと

日本歴史地名大系 「富岡城跡」の解説

富岡城跡
とみおかじようあと

[現在地名]苓北町富岡

富岡半島の奥まった丘陵にある。城跡からは西方に荒々しい天草灘、東方に波静かなふくろ湾が好対照をなしている。臥龍がりゆう城ともいう。「島鏡」によれば、慶長九年(一六〇四)肥前唐津藩主寺沢広高は唐津からつに近く、三方を海に囲まれた天然の要害地に新たに富岡城を築いた。後背地は汐入しおいりの谷を隔てて元袋もとぶくろ尾越おごしの小高い山々が連なり、袋池と汐入の谷を結ぶ線は空堀で囲まれ、警固を厳重にしている。「天草近代年譜」によれば同一〇年に城郭としての形を整え、大手門両翼に戸止とど口・はま口の二門を設けた。船津舸子かこ町、権現ごんげん山麓御徒おかち町など外郭も整備された。文政六年(一八二三)天草島富岡地勢要図(松浦家蔵)に「一、陣屋囲内、東西四十七間、南北三十間、此反別四反七畝歩、一、本丸、東西二十間、南北拾二間、反別八畝歩、本丸ヨリ二ノ丸三十五間、一、二ノ丸、東西拾一間、南北四拾三間、反別一反五畝廿四歩」とあり、また寛延三年(一七五〇)の富岡町明細帳(苓北町漁業協同組合蔵)に「古御城山、廻り二里半」と記され、城域の規模が知られる。

寛永一四年(一六三七)天草・島原の乱時には、一揆勢が一〇月一九日・二一日の二度にわたって当城を攻撃したが、敗退して肥前島原半島のはら(現長崎県南高来郡南有馬町)へ退却した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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