富谷村(読み)とみやむら

日本歴史地名大系 「富谷村」の解説

富谷村
とみやむら

[現在地名]富谷町富谷・とみおか一―四丁目・鷹乃杜たかのもり一―四丁目・あけの平あけのだいら

南は七北田ななきた(現泉市)、東は穀田こくだ村、北は一関いちのせき村・三関村、西は宮床みやとこ村・小野おの(現大和町)。宮城郡境の大清水おおしみずを源とする富谷川に沿う農山村。七北田村より吉岡よしおか(現大和町)へ抜ける奥州街道(現国道四号)が南北に通る。村名は「安永風土記」によれば、かつて当村の熊谷くまがいに宮十社があったので「とみや」と称し、十宮と書いたがのちに富谷と書き改めたとしている。熊谷の集落は村の南部の奥州街道沿いにあり、熊谷次郎直実より七代前の次郎直季が、源家に従って奥州に下り、安倍一族を討った折に熊谷館を築いたという口碑が残る。

慶長年間(一五九六―一六一五)から寛永一一年(一六三四)まで伊達宗清の知行地

富谷村
とみやむら

[現在地名]岩瀬町富谷

おお川右岸、富谷山南麓に位置し、東は中里なかざと村。日光街道が村内を通り、中里村に通ずる道の分岐点にもなっている。戦国期は益子氏の支配下にあり、天正年間(一五七三―九二)に村の御城みじようの地に富谷城が造られた。城には益子氏の家臣加藤大隅守・同大蔵少輔が配置され、反目する笠間氏に備えた。同一一年に双方の農民の争いに端を発して戦いが起こり、益子方は富谷の城兵を飯田いいだ村に出し、笠間方も橋本はしもと城の谷中玄蕃親子を出兵させた。

富谷村
とみやむら

[現在地名]八日市場市ロ

八日市場村の東に位置する。集落は東西に延びる多古銚子たこちようし道沿いに形成される。天正一九年(一五九一)の匝瑳郡南条庄富谷村御縄打水帳(平山家文書)によれば、上田一町三反余・中田四町四反余・下田二町七反余・下々田六町四反余、中畑四反余・下畑三町四反余・下々畑一町九反余、屋敷地は一町六反余で筆数三五。寛永二年(一六二五)当時当村内の一〇〇石が旗本林領であった(知行宛行状)。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では林領のほかに旗本神谷領七〇石があり、椿組に属した。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一七四石で、旗本林・神谷・永井領の三給。

富谷村
とみやむら

[現在地名]大宮町小祝こいわい

上大賀かみおおが村・久慈岡くじおか村の西にある。古くは別所べつしよ村といい、康安二年(一三六二)正月七日の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に中御前(那珂通尚妻、義篤女)分として「久慈西別所村」とあり、天保郷帳に「富谷村」とみえる。「新編常陸国誌」に「寛政十二年、富谷村と改」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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