翻訳|Asia Minor
アジアの西端に突出した半島で,アナトリア(トルコ語アナドルAnadolu)ともよばれる。古くアジアという地名は漠然と〈東方〉を意味し,最初は現在の小アジアの西部をさして用いられた。ヘロドトス以来,アジアが,少なくともペルシアまでを含めた地名として使われ始めると,これと区別するためにアナトリアをさす小アジアという呼称が生まれた。小アジアという地名が文献に初めて現れるのは,5世紀に著されたスペインの司教オロシウスの《世界史》であるといわれている。
→アジア
執筆者:永田 雄三
小アジアでは,すでに前8000年ころから小規模灌漑による農耕文明が栄えていたが,初期の国家としては前17世紀のヒッタイト,前15世紀のミタンニがあげられる。前14世紀に最盛期を迎えたヒッタイトはフリュギア人の侵入に苦しめられ,前800年ころにはフリュギア王国,次いで初めて貨幣を鋳造したことで知られるリュディア王国が前680年ころ建国された。東方の強国アケメネス朝ペルシアが,前547年リュディアを滅ぼし,以後小アジア全域を支配した。前8~前7世紀ころにはギリシア人が植民市を沿岸地帯に数多く建設し,以後ギリシア文明の影響を受けた沿岸部と,昔ながらの農村社会を中心とする内陸部との違いが明瞭となった。自治・自由を理想とする沿岸部のギリシア系ポリスと専制支配をもくろむペルシアとの間で確執が続いた。
前334年に始まるアレクサンドロス大王の東方遠征の結果,小アジアはペルシアの支配を脱してマケドニアの支配下に入ったが,王の死後,後継者争いを経てセレウコス朝シリアの領土に編入された。この混乱期に各地の有力者が独立し,カッパドキア,アルメニア,ビテュニア,ガラティア,フリュギア,キリキア,ピシディアなどの国や地方に分かれ始めた。セレウコス朝の衰退に伴ってこの傾向はいっそう顕著となり,前3世紀半ばに起こったペルガモン王国とポントス王国とが中でも最も強大となった。前2世紀半ば以降共和政ローマの力がしだいに小アジアにまで及び,前129年旧ペルガモン領に直轄領たる属州アシアが設けられた。一方の雄ポントス王国はローマに抵抗して戦ったが敗れ,前63年ビテュニア・ポントゥス州が設置された。帝政期に入って後1世紀までにはガラティア州,リュキア・パンフュリア州,カッパドキア州が属州として加えられ,小アジア全域はローマ帝国の支配圏内に組み込まれた。前286年ディオクレティアヌス帝の帝国東西分割によって小アジアは東ローマ帝国の中心となり,独自のビザンティン文化を築き上げた。
→アナトリア
執筆者:田村 孝
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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